足利忠綱 あしかが ただつな
最終更新: 1月8日

File No.20
【足利忠綱】 あしかがただつな
Ashikaga-Tadatsuna
足利家随一の勇敢な若武者。
【本姓】藤原忠綱
【生年】長寛2年
【没年】不詳 (1164〜?)
【氏族・血族】
藤原北家秀郷流 藤姓足利氏
【父】足利俊綱
【所領】下野国足利郡
下野国国司、鎮守府将軍・藤原秀郷をその先祖とする藤姓足利氏5代当主。
■足利忠綱の概要
治承・寿永の乱において、平氏方について戦った猛将。
『吾妻鏡』によると治承4年の以仁王の挙兵において、
以仁王からの挙兵の令旨が小山氏には届いたが、
足利氏にはなかったことを恥辱として平氏方に加わったという。
忠綱は17歳であったというが一門を率いて上洛し、
平氏の有力家人軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。
最後は源氏に帰順したとの説もあるが、
実際は父:俊綱と共に頼朝軍に敗北、
藤姓足利の宗家は滅亡した。
■「足利忠綱」勇猛な逸話
(1)宇治川の逸話
増水した宇治川を前に怯む味方側を横目に、17歳の若武者:忠綱が、「深さ、速さは利根川と変わらない。皆続け。」と、「殿ばら続け」。真っ先に馬を川に乗り入れ、約300騎が「馬筏(うまいかだ)」となって続いた。
という足利忠綱の華々しい戦功が「平家物語」に記されている。
坂東武者の誇りを示した名場面。
(2)「避来矢(ひらいし)」の逸話
飛んでくる矢が当たらないという大鎧。
ある時忠綱は、この重い大鎧から軽い鎧に替えて戦った。
戦いを終えると、川べりに置いたはずの大鎧はなく、平らな石だけがあった。
家宝をなくしたと嘆く忠綱が石をたたくと、大鎧が現れた。
■ふたつの足利氏
足利氏というと、
清和源氏の子孫で室町幕府を開いた足利氏が有名だが、
当時(平安後期)下野国足利には、
源姓足利氏と並立して、
藤原秀郷を祖とする別の足利氏もあった。
両足利氏を区別するために、
清和源氏を祖とする足利氏を「源姓足利」、
藤原秀郷を祖とする足利氏を「藤姓足利」とよぶ。
この源姓足利氏と藤姓足利氏は、
平安中期から鎌倉初期まで並立していた。
当初は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の方が勢力が大きく、
足利郡内を中心に数千町という広大な所領を持ち、
同じく秀郷流の小山氏と『一国之両虎』と称されるほどの力を持っていた。
源姓足利氏は後に足利地方に進出してきたが、
当時の藤姓足利氏の勢力は強大で、
初めから源姓足利の勢力拡大とはいかなかった。
歴史の情勢が少し変わっていたら、
源姓足利氏が先に滅び、
藤姓足利氏が生き残り幕府を開いたかもしれない。
源平の争いに際しては、
平家側について戦い、最後は源氏によって滅ぼされる。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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