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足利義兼 あしかがよしかね 

最終更新: 9月10日


File No.15

【足利義兼】あしかがよしかね ashikaga_yoshikane


鎌倉幕府からその後の足利氏の基盤を作った人物

YOSHIKANE made a foundation by which ASHIKAGA clan prospers, to the time which is after that from The Kamakura Period,


別名:春王丸  (法名)義称

生年=久寿元年  

没年=正治元年 (1154〜1119)

氏族・血族=河内源氏義国流足利氏

   源(足利)義康の子 正室:北条時子(北条政子の妹)

所領=下野国足利  

足利氏二代当主


源氏には、祖とする天皇によって21の流派があり、そのうちの一つに清和源氏がある。

清和源氏の中の第六皇子貞純親王の子・経基王が後の源経基で、その子孫が後々源氏の主流として繁栄した。

源氏一族も時代を経て氏族が多くなり、各々がその本拠とした地名を通称として用いるようになる。その代表的なものが、下野国足利を地盤とする足利氏であり、また上野国新田を本拠とする新田氏で、他に、武田、今川、佐竹、吉良など、有名武家に繋がっていく。


足利義兼は、将来を嘱望されながらも若くして生涯を終えた足利氏の祖、足利義康の三男で、義兼の母は、頼朝の母由良御前の妹なので、源頼朝とは従兄弟の関係である。


治承4年(1180年)

従兄弟の源頼朝が、以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していたらしい。

元暦元年(1184年)

木曽義仲の残党の討伐において戦功を挙げる。

その後、頼朝の弟・範頼に属して平氏を追討した功績により、頼朝の知行国であった上総国の国司に推挙された。

文治5年(1189年)奥州合戦に従軍。

建久元年(1190年)

出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると、追討使としてこれを平定している。

源頼朝の配下として幕府において高い席次を与えられていたが、頼朝の地位が高まっていくと、他の御家人と同様に、幕下に組み込まれることとなった。

建久6年(1195年)3月に東大寺で出家し、義称(ぎしょう)と称した。出家は、頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたための処世術であったと言われている。


また法名は鑁阿(ばんな)。足利市鑁阿寺の開基。

鑁阿寺は、義兼が居館に建立した持仏堂を義氏の代に整備したものとされる。足利学校の創設者ともいわれる。


源頼朝が1199年(建久10年)1月に死去すると、義兼もこれを追うように同年3月に死去した。享年46歳。生入定であったとも伝えられている。


その後も足利氏は、幕府内の地位を低下させながらも生き残り、長い雌伏の時を経て、先祖源義家から伝わる置文や子孫足利家時の残した置文の通り、室町幕府初代、足利尊氏により天下を手に入れることになる。


※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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