藤原清衡 ふじわら きよひら
最終更新: 1月8日

File No.6
【藤原清衡】
ふじわらきよひら
【別名】清原清衡 平清衡
【生年】天喜4年1056年
【没年】大治3年1128年
【氏族・血族】
陸奥国藤原氏
奥州藤原氏初代
【父】藤原常清は藤原秀郷の子孫
【在位・官位】
陸奥国奥六郡 陸奥押領使 正六位上
【墓所】平泉町 中尊寺
数奇な運命の中から平泉文化を生んだ秀郷の末裔。
奥州平泉を拠点としており、厳密には関東武士とは言えないかもしれないが、父:藤原常清は藤原北家藤原秀郷の流れであり、外すことができない一人。
■生涯について
陸奥国の豪族・藤原経清と陸奥国奥六郡を治めた俘囚長・安倍頼時の娘の間に生まれる。
当時父の藤原経清は、藤原氏の一族の係累に連なる者として中央の藤原氏からも認められていたようだ。
経清は前九年の役で源頼義に反して安倍氏に味方したが、厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳。敵将の嫡男で処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将方である清原武貞に再婚、連れ子の清衡も清原武貞の養子となり危うく難をのがれた。
複雑な血族の多い奥州の地であったが、「前九年の役」「後三年の役」と生き抜き、清衡32歳の時、一族最後の者として奥六郡を支配する勢力者となり、実父の姓である藤原に姓を戻し、奥州藤原氏の祖となった。
■中尊寺造営について
都の藤原氏と交誼を深め、奥羽の統治者としての地位を築き、11世紀の終わり頃、平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設にとりかかり、中尊寺造営など壮大な中世都市平泉の基盤をつくり、奥州藤原氏4代100年の栄華の平泉文化の基礎を築いた。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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