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壬生綱房 みぶ つなふさ


No. 40


【壬生綱房】

みぶ つなふさ 

Mibu Tsunafusa


壬生氏の第三代当主。策を弄して他の重臣を排し宇都宮氏家中で大きな権力を持つ。後に下克上で一国一城の主となる。


【別称・通称】?

【官位】下総守 中務少輔

【生年】天明11年(1479年)

【没年】天文24年(1555年)

【時代】室町時代後期〜戦国時代

【氏族・血族】壬生氏

【在所・所領】下野国壬生

【墓所】不明

【由縁の場所】栃木県壬生町/宇都宮市

【家系・系譜】

父:壬生綱重 

母:芳賀高益娘

兄弟:周長、大門資長

子:綱雄




壬生氏について


壬生氏は、第11代垂仁天皇の皇子を祖とする皇別氏族。

平安時代からは小槻を称する家系で、室町時代に小槻氏からでた京都の壬生家・壬生胤業を祖とする。

戦国時代、下野国壬生・鹿沼を中心に勢力を張った名門の武家。

壬生綱房は、壬生氏第三代当主。

下野宇都宮氏の家老・壬生綱重の嫡男で、宇都宮家中宿老の一人。




壬生綱房について


下野国および北関東における下克上武将の代表で、相当の野心家だったといわれる。

宇都宮氏の内紛(宇都宮錯乱)に乗じて、策を弄し当時の宇都宮氏の重臣・芳賀高経等を失脚させ、宇都宮家中で絶大な権力を有したという。


時の宇都宮当主を自殺の追い込み、失脚させ、時に当主の不審死などもあり、家中の権勢をほしいままにしたといわれる。


宇都宮城を占拠したりもしたが、晩年には下克上を果たし宇都宮氏から独立した。

天文24年1555年急死。ライバル芳賀高定による謀殺ともいわれる。




宇都宮錯乱(うつのみやさくらん)


永正9年1512年から同11年1514年にかけて下野宇都宮氏で発生した内紛。

宇都宮氏は、伝統的に足利将軍家に近い立場を採っていた。しかし、関東公方が古河公方として宇都宮城に近い古河御所に本拠を移したため、その政治的で軍事的な圧力を受けることになり、たびたび対立する行動を繰り返した。また、宇都宮氏のその他の流派や下野国の武士の間には、騒乱に対応するために、下野国で最も有力であった宇都宮氏の傘下に入る者も多かった。だが、このことは古くからの筆頭重臣芳賀氏と家中で発言力をもつ塩谷氏・皆川氏・壬生氏らとの対立を生むことになり、宇都宮氏をより不安定にすることになった。


文明9年1477年に当主となった宇都宮成綱は、そのような状況を収め権威回復に努めようとした。実際には芳賀景高が実権を握っており、その景高が明応6年(1497年)に没した後は、息子芳賀高勝が引き続き権力を掌握していた。


永正3年1506年古河公方足利政氏と息子の高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、高基の舅であった宇都宮成綱は高基を支持したが、実権を握る芳賀高勝は政氏支持でありこれに同意せず、宇都宮氏の家中は分裂状態になった。


永正9年1512年宇都宮成綱が芳賀高勝を殺害、それをきっかけに芳賀氏が反乱を起こした。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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