佐竹義重 さたけ よししげ

No. 56
【佐竹義重】
さたけ よししげ
Satake Yoshishige
鬼義重と恐れられた佐竹氏全盛期の第十八代当主。出羽に移封の際、常陸美女を同道し秋田美人の元になったという。
【別称・通称】徳寿丸(幼名)/次郎/鬼義重/坂東太郎
【官位】常陸介
【生年】天文16年(1547年)
【没年】慶長17年(1612年)
【時代】戦国時代〜江戸時代初期
【氏族・血族】常陸源氏/佐竹氏
【在所・所領】常陸国/出羽国
【墓所】
【由縁の場所】水戸市/秋田市
【家系・系譜】
父:佐竹義昭
母:岩城重隆娘
兄弟:那須資家、義尚、小場義宗(義家)、宇都宮広綱室
妻:伊達晴宗娘(正室)(宝寿院)、細谷氏娘(側室)
子:義宜、蘆名義広、江戸実通室、岩城貞隆 他
佐竹氏は、新羅三郎 源義光を祖とする常陸源氏で、佐竹義重は第十八代目にあたる。
■武勇や逸話について
義重は智勇に優れた武将といわれ逸話も多い。
ある時は7人の敵を一瞬で斬り伏せたといい、その勇猛さから「鬼義重」の異名で恐れられた。
就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたともいわれる。
出羽に転封された後、「北国は寒いから」と子の義宣から寝巻きと敷布団を送られたが、使ってみても気に入らず、二度と敷布団を使うことはなかったといわれる。自らの子女を、蘆名氏をはじめとする有力大名に養子や室として送り込み、そのネットワークで巧みに勢力を拡大した。
また、義重は大変な愛刀家だったといわれている。
上杉輝虎(謙信)から名刀「備前三郎国宗」を送られ、後にこれを子の義宣に譲るが、義宣が刀の切っ先を削って脇差にしてしまい、義重はこれを嘆いたという。
義重の愛刀は、母の実家・岩城家の所蔵だった南北朝時代の名刀「八文字長義」で、母の縁で佐竹家に送られた。この刀は、北条氏政の軍と戦った時、北条方の騎馬武者を斬ったところ、その武者は兜もろとも真二つになり、八文字の形になって馬から落ちたといういわれを持つ。この名刀「八文字長義」は海外の奇集家を転々とし、現在は国内にあるといわれ秋田に戻そうという運動も起きているというが・・・。
■「秋田美人の話」の逸話
俗説として語り継がれる「秋田美人の話」
佐竹義重の子・義宣が、関ヶ原の戦いの後徳川家康から出羽国転封を命じられ、転封の腹いせに、常陸国中の美女を集め出羽国に連れて行ったという。これが後の秋田美人の礎を築いたと言われる。が証拠はない。(後日談として、その後に水戸へ入った徳川頼房がそのことを抗議したところ、秋田領内の美しくない女性を送りつけてきたため、秋田の女性は美人で水戸は不美人の三大地の一つとなった、といわれる。)
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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