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宇都宮公綱 うつのみやきんつな

最終更新: 9月10日


File No. 35

【宇都宮公綱】うつのみやきんつな 

kintsuna-utsunomiya

配下の紀清両党を率いて名将といわれた楠木正成と戦った

宇都宮氏の当主。

The head of a UTSUNOMIYA family who led follower’s “KISEI RYOUTOU” and fought against KUSUNOKI MASASHIGE called a great commander.


官位=正四位下 左近衛少将

生年=乾元元年1356年

没年=正平11年延文元年1356年

氏族・血族=下野宇都宮氏

在所・所領=下野国宇都宮

主君=北条高時〜後醍醐天皇〜後村上天皇


藤原北家道兼の子孫を称する鎌倉幕府の有力御家人。

宇都宮氏第九代当主。名将・楠木正成をも恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能を発揮し、『新続古今和歌集』には公綱の作品が修められている。


配下の芳賀高名と益子貞正が率いる二つの武士団は、「紀清両党」として宇都宮氏の家中の精鋭として高く知られ、東国武士団の武勇を代表する存在として名高い。

(No.33芳賀高名の項およびこの後に登場するNo.37益子貞正も参照ください)


元弘の乱の1333年1月、北条高時の命を受けて上洛し、紀清両党を率いて摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦った。このとき、楠木正成は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。

正成は、四天王寺で対峙した際に「宇都宮氏が坂東一の弓取りである」こと、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」などと評した。

この楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。


1335年「中先代の乱」の後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は竹之下の戦いで尊氏軍と戦ったが敗れ、翌年に北朝方の尊氏に降伏してその家臣となった。公綱が北朝方になると、南朝方の北畠親房の将、伊達行朝、中村経長(中村城主)の軍勢に真岡、烏山が攻め込まれ、重臣の芳賀高貞父子が討ち取られてしまったが、尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参し、その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。


※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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