宇都宮公綱 うつのみや きんつな
No. 42
【宇都宮公綱】
うつのみや きんつな
Utsunomiya Kintsuna
配下の紀清両党を率いて名将・楠木正成と戦った。和歌にも優れた才能を持ち「新続古今和歌集」に記載されている。
【別称・通称】高綱/公綱/理連(法名)
【官位】正四位下/左近衛少将
【生年】乾元元年(1302年)
【没年】正平11年延文元年(1356年)
【時代】鎌倉時代後期〜南北朝時代
【氏族・血族】藤原系下野宇都宮氏
【在所・所領】下野国宇都宮
【墓所】興禅寺(宇都宮市)
【由縁の場所】宇都宮市/大阪府
【家系・系譜】
父:宇都宮貞綱
兄弟:高貞(公貞・綱世)、冬嗣
妻:千葉宗胤の娘
子:氏綱、城井家綱(公綱の弟・冬綱の養嗣子)
■宇都宮氏第九代当主
宇都宮氏第九代当主。
藤原北家道兼流の子孫である鎌倉幕府の有力御家人。
配下の芳賀高名と益子貞正が率いる二つの武士団は、「紀清両党」として宇都宮氏の家中の精鋭として高く知られ、東国武士団の武勇を代表する存在として名高い。
■活躍について
元弘の乱の1333年1月、北条高時の命を受けて上洛し、紀清両党を率いて摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦った。
このとき、楠木正成は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。
公綱もまた、正成の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかず引き分けた。
正成は、四天王寺で対峙した際に「宇都宮氏が坂東一の弓取りである」こと、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」などと評した。
この楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。
■南北朝時代
公綱が北朝方になると、南朝方の軍勢に真岡、烏山が攻め込まれ、重臣の芳賀高貞の父子が討ち取られてしまう。
尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参し、その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。
晩年は不遇だったといわれ、正平11年/延文元年、1356年に55歳で没し、宇都宮の興禅寺に葬られている。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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