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その7 鬼平も田沼も佐野大明神も…江戸期に活躍した秀郷流

その7 鬼平も田沼も佐野大明神も…江戸期に活躍した秀郷流

水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!

 

栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)では、秀郷の子孫として小山氏、長沼氏とその子孫・皆川氏、結城氏、佐野氏、藤姓足利氏といった栃木県内やその近辺を拠点にした秀郷流の名族に関する史料が展示されています。その中心は戦国時代までの中世に活躍した武将たちですが、秀郷の末裔には江戸時代に活躍した人物もいます。



 

「鬼平」長谷川平蔵は下河辺氏の末裔

 

「鬼平」こと鬼の長谷川平蔵、実名・長谷川宣以(のぶため)は、下河辺政義の子孫です。

下河辺政義は無名ですが、鎌倉幕府創成期に活躍した御家人。兄・下河辺行平は、源頼朝暗殺未遂犯逮捕とか、謀反の疑いがかかった畠山重忠をかばったとか、『吾妻鏡』に痛快エピソードの多い武将です。そして従兄弟は小山朝政、長沼宗政、結城朝光の小山三兄弟。いずれも源頼朝の信頼厚く、こちらも『吾妻鏡』に頻出します。

下河辺政義の子孫が大和・長谷川に住み、長谷川氏を名乗ります。今川氏に従った長谷川正宣(まさのぶ)、その孫で桶狭間の戦い後、徳川家康に従い、三方ヶ原の戦いで戦死した長谷川正長と続きます。正長の子のうち次男・宣次の家系は400石の旗本として江戸時代も存続しました。この家系から出てきたのが長谷川平蔵です。



 

「忠臣蔵」大石内蔵助は小山氏分家から

 

また、「忠臣蔵」の主人公・大石内蔵助、実名・大石良雄は小山氏の子孫で、こちらも秀郷流です。小山氏分家で近江・大石荘(滋賀県大津市)を拠点としたのが大石氏。応仁の乱で没落した一族でしたが、大石良信が関白・豊臣秀次(秀吉のおい)に仕えます。そして、良信次男・大石良勝は真壁藩(茨城県桜川市)、笠間藩(茨城県笠間市)を治めた浅野長重(浅野長政の三男)の下、大坂夏の陣で活躍し、筆頭家老となります。この良勝が大石内蔵助の曾祖父。良勝の武功で子孫も筆頭家老の地位が約束された永代家老です。

そして、次の代には関東から赤穂藩(兵庫県赤穂市など)に移っていくのです。



 

佐野氏の系統 田沼意次父子、佐野政言

 

田沼意次(おきつぐ)、意知(おきとも)父子は佐野氏の分家・田沼氏の出身です。佐野氏も秀郷流の中で直系意識の強い一族でした。安蘇郡田沼村(栃木県佐野市)を拠点とし、鎌倉時代に独立した田沼氏は江戸時代、9代将軍・徳川家重、10代・家治に側近として仕えた田沼意次を輩出しました。意次は旗本から側用人、老中へと出世。父の遺領を受け継いだ時は600石でしたが、最終的に5万7000石まで加増されています。

意次の嫡男・田沼意知は30代で若年寄となり、我が世の春を謳歌していましたが、1784年(天明4年)3月24日、500石の旗本・佐野政言(まさこと)に斬りつけられ、この傷が元で4月2日に死去しました。36歳でした。

田沼意知を斬り、田沼時代を終わらせた佐野政言(通称・善左衛門)は、佐野大明神、世直し大明神とも呼ばれます。こちらは佐野氏の出身となります。

佐野氏は戦国時代末期、豊臣秀吉側近・富田一白(長家)の五男が養子に入り、佐野信吉と名乗って当主となります。この秀郷の血統から離れた佐野氏本家とは違い、戦国時代には三河に拠点を持っていた佐野氏分家があります。そのうち、徳川家康の祖父・松平清康に仕えていた佐野与八郎(正安)が佐野政言の祖先となります。

佐野政言の田沼意知刃傷事件は、系図の貸し借りが引き金になったとする史料はありますが、全面的に信じてよいのか分かりません。

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