栃木の歴史『藤原秀郷フォーラム』2020年1月25日開催

藤原秀郷はどんな人物?
~史実と伝説のあいだで~

2018年 栃木県立博物館

【藤原秀郷源平と並ぶ名門武士団の成立】担当者

栃木県立博物館 学芸員

山本 享史

はじめに ~藤原秀郷に対する現代の認識~

● 藤原秀郷の評価は?

史実 → 10 世紀(平安時代中期)関東に独立国家の樹立を図った“新皇”平将門を打倒

子孫の秀郷流藤原氏(秀郷流武士団)は関東を中心に全国に展開

伝説 → 近江(滋賀県)での大ムカデ退治で有名な「俵藤太(たわらのとうた)」 

「俵藤太物語」として御伽草子に収録

※宇都宮市内では百目鬼退治として知られている

● 藤原秀郷の知名度は?

※高等学校日本史の教科書の記述(笹山晴生他『詳説日本史』山川出版社、2015 年)

《本文》【地方の反乱と武士の成長】の項目、太字は教科書の書式のとおり 東国に早くから根をおろした桓武平氏のうち、平将門は下総を根拠地にして一族と争い を繰り返すうちに、国司とも対立するようになり、939(天慶2)年に反乱をおこした(平 将門の乱)。将門は常陸・下野・上野の国府を攻め落とし、東国の大半を占領して新皇と自 称したが、同じ東国の武士の平貞盛・藤原秀郷らによって討たれた。 同じ頃、もと伊予の国司であった藤原純友も、瀬戸内海の海賊を率いて反乱をおこし(藤 原純友の乱)、伊予の国府や大宰府を攻め落としたが、やがて清和源氏の祖である源経基ら によって討たれた。こうして東西の反乱(あわせて承平・天慶の乱と呼ばれる)はおさま ったが、この乱を通じて朝廷の軍事力の低下が明らかになり、地方武士の組織はいっそう強化された。

一般に、藤原秀郷は平将門が討たれたことを説明するための人物として登場する現状では、伝説化された武将“俵藤太“のイメージが先行、史実と伝説が混在している。

1. 藤原秀郷の系譜 ~貴族の名門藤原北家の子孫~

● 藤原鎌足(かまたり)

中大兄皇子(のち天智天皇)とともに大化の改新で活躍

- 不比等(ふひと)

大宝律令の選定者の一人(ほかに下毛野古麻呂もいる)

- 魚名(うおな)

正二位・左大臣までのぼりつめる

- 房前(ふささき)

藤原北家(天皇家と外戚関係を結び発展。道長も子孫)の祖

<<< 以上が都で活動した時代、以下が下野で活動した時代 >>>

- 藤成(ふじなり)

・秀郷の曽祖父

・下野国府(現栃木市、現代の県庁)に国司(幹部職員)の介(二等官)として赴任

・現地の豪族鳥取氏と姻戚関係を結ぶ ⇒ 秀郷一族が下野に定着するきっかけ

- 豊沢(とよさわ)

・秀郷の祖父

・鳥取氏のもとで育ったとみられる。父と同じく鳥取氏と姻戚関係を結ぶ

・下野国府では少掾(国司三等官、職務に国内の治安維持を含む)をつとめる

- 村雄(むらお)

・秀郷の父

・父と同じく鳥取氏のもとで育ったとみられる。鹿島氏と姻戚関係を結ぶ

・下野国府では大掾(国司三等官、職務に国内の治安維持を含む)をつとめる

秀郷一族の下野との接点は、曽祖父藤成から始まる。以後子孫も、下野国府の国司をつとめつつ、現地の有力豪族と姻戚関係を結ぶことで下野に定着していったと考えられる。

秀郷は下野で生まれ育った武将と考えるべき ≠ 近江

2. 当時の関東地方の情勢 ~治安が非常に悪かった~

● 東北地方の蝦夷(えみし)による反乱が多発

-もともと蝦夷は朝廷に反抗的な勢力 → 全国に移住させられる場合もあった

-蝦夷は弓馬術に長けた集団

弓馬の戦闘、夷獠の生習にして、平民の十、其の一に敵すること能はず。(『続日本後紀』)

秀郷の先祖は、国司という職務上あるいは下野という地理的環境上、蝦夷との接点を持ったと考えられ、弓馬に長ける蝦夷との激しい戦いを経験した可能性が高い

秀郷一族の弓馬に長ける武芸が発展、継承されていったとみられる

3. 藤原秀郷の登場 ~関東では有名な武勇の人~

● 秀郷の初見史料

『日本紀略』延喜16 年(916)8 月 12 日条

下野国が言(もう)すらく、罪人は藤原秀郷、同兼有(かねあり)、高郷(たかさと)、與 貞(ともさだ)等十八人なり。重ねて国宰(こくさい)に仰せて、其の罪科(ざいか)に随 (したが)い、各(おのおの)配流(はいる)せしめるの由(よし)、重ねて下知(げち) す。

→ 秀郷は、朝廷や下野国といった公権力と対立する立場にあった

『扶桑略記』延長7 年(929)5 月 20 日条

下野国、藤原秀郷等の濫行(らんぎょう)を糺(ただ)し勘(かんが)ふべきの由を言上 す。(関東の)国々、人兵等を差し向かうべきの官符(かんぷ)五通、請印(しょういん) す。

→ 秀郷は、関東諸国が兵を向かわせないと抑えられないほどの武力があった

平将門の乱以前、秀郷が下野国府で公的な職に就任していた形跡はない むしろ、下野を中心に関東で公権力と対立していた武装集団のリーダーであった → このような行動が平将門の乱という国家の危機で朝廷から鎮圧軍として利用された

4. 平将門の乱での活躍 ~秀郷は鎮圧者として最高殊勲者に~

● 「平将門の乱」対立構図 (承平5 年<935>~天慶3年<940>)

① 平将門 VS 伯父・平良兼 → 平氏一族内の抗争

② 平将門 VS 常陸介・藤原維幾(中央貴族)→ 朝廷との抗争 = 狭義の「平将門の乱」

<<< 以下、軍記物語『将門記』を参考に平将門の乱の経過をたどる >>>

● 承平8 年(938)

2月 武蔵権守・興世王、武蔵介・源経基 VS 武蔵足立郡司・武蔵武芝

→ 税の納入をめぐるトラブル。将門、これを調停する

● 天慶2 年(939)

- 6~7月 常陸介・藤原維幾 VS 常陸豪族・藤原玄明

→ 税の納入をめぐるトラブル。将門、玄明を保護する

- 11月21日 将門は玄明の赦免を要求するも、維幾に拒否される
→ 将門、常陸国府を焼き討ち、維幾を捕らえる
朝廷との抗争に発展(平将門の乱の始まり)。将門、関東を制圧へ

- 12月11日 将門、下野国府を襲う

→ 下野守・藤原公雅および前下野守・大中臣全行が印鎰を捧げて降参、都へ追放される

- 12月19日 将門、陥落させた上野国府で新皇と称する

● 天慶 3 年(940)

- 正月:朝廷、僧侶を集め将門を調伏(呪い殺すこと)させる

- 正月 11 日:朝廷、将門を討伐した者に破格の恩賞を与える旨の命令を下す

この命令は、秀郷が平将門の乱の鎮圧に参加する一つの要因となった


- 正月 14 日:朝廷、将門を追討するため関東 8 か国の掾(国司三等官、治安維持役)を任命

秀郷、下野掾となる

秀郷、押領使(臨時の軍事官職)を兼任する=8人中、秀郷のみの待遇だった

朝廷から追討される立場=賊軍 → 将門を追討する立場=官軍

関東 8 か国による追討軍のリーダーへと抜擢された

- 正月下旬 将門、兵士らをいったん帰らせる
→ 兵士=農民のため、長期間の徴兵には無理があった。
残る兵士は約1,000人不足

<秀郷の挙兵、秀郷の巧みな軍略>

新皇側の様子を伝え聞いて、平貞盛並びに押領使藤原秀郷たちは四千余人の軍兵を整え、突如戦いをしかけようとした。新皇は非常に驚き、二月一日を期して、従兵を率いて敵地 下野に国の境を超えて進軍した。… 今、将門軍はひそかに肉迫して押領使藤原秀郷の陣地に襲いかかった。秀郷は、以前から戦いの経験を積み、老練な軍略に長けていたので、計算通り将門軍の一部を見事に撃ち破り従えた。また、将門軍は三軍を動かす秀郷の戦術 に惑わされて四方の野に散り散りとなった。

秀郷・貞盛連合軍4,000人が出兵(実際に残ったのは精鋭300人とみられる)

→将門、下野国へ出陣するも敗走する

秀郷、戦いの経験が豊富な上、戦略・軍略に長けていた

- 2月14日 将門、秀郷・貞盛連合軍により討たれる
→ 将門軍、「幸島郡の北山」(茨城県坂東市国王神社付近か)に陣を張る

秀郷・貞盛による将門打倒(『扶桑略記』)

秀郷・貞盛ら身を棄て命を忘れ、馳せ向かい射合った。将門、貞盛が放った矢が命中して 落馬し、秀郷が馳せ至り将門の首を斬った。

     →  秀郷は将門を打倒後、その旨を都へ報告した

- 3月9日 秀郷、褒賞を受ける

位階を叙され、功田も賜る

- 藤原秀郷を賞して従四位下に叙し、兼ねて功田を賜い、永く子孫に伝えよ。更に追かみって下野・武蔵両国の守に任ず(『扶桑略記』)

- 下野押領使藤原秀郷らは、みな勇敢なる武勇の誉れを大いに認められて、褒賞のご沙汰があった。そこで去る三月九日に中務省に上申して、秀郷が軍略にすぐれ、忠節を尽くした旨を述べ、それによって将門の首が陣営に届き、朝廷のために武功を立てたと奏上した。掾の貞盛は長年にわたり戦い続けたとは言うが、なかなか勝負を決めることはできなかった。しかし、秀郷の合力によって謀叛者将門の首を斬り取ることができた。これには秀郷の老練な軍略の効果が大いに認められた。

よってこれを従四位下に叙した

●秀郷は平将門の乱鎮圧の最高殊勲者と認められた

(従四位下、下野守・武蔵守、功田)

     ⇒ のち、武門の頂点である鎮守府将軍に任命された

鎮守府とは?

蝦夷鎮圧のために陸奥国に置かれた軍政府。北方の守りの要。はじめ多賀城(宮城県多賀城市)、のち坂上田村麻呂が胆沢城(岩手県奥 州市)に移転。長官である将軍には、武に優れた者が任命された

鎮守府将軍職は、11 世紀前半(平安時代後期)にかけて秀郷の子孫に世襲され、源氏の征夷大将軍に拮抗する名誉の象徴であった
→ 鎌倉時代には、秀郷は武士・武芸の祖として仰がれることとなった

栃木県立博物館『藤原秀郷 源平並ぶ名門武士団の成立』(2018年)

5. 子孫=秀郷流武士団が全国で活躍

    ~源平と並ぶ名門武士団の成立~

〈県内〉藤姓足利氏、那須氏、小山氏、長沼氏(のち皆川氏)、佐野氏、小野寺氏…

〈全国〉奥州藤原氏、紀伊佐藤氏、下総結城氏、相模山内首藤氏・鎌田氏・波多野氏…

秀郷流武士団の広がり(「俵藤太物語」末尾)

日本六十余州に弓矢をとって藤原と名のる家、おそらくは秀郷の後胤たらぬはなかるべし

栃木県立博物館『藤原秀郷 源平並ぶ名門武士団の成立』(2018年)

● 俵藤太伝説=「俵藤太物語」とは

- 室町時代の御伽草子(短編物語集)の一つ

- あらすじ

前半:近江(滋賀県)での大ムカデ退治(~)伝説

後半:平将門の乱での活躍(~) 史実 が含まれる

 朱雀天皇の時、従五位上村雄朝臣の嫡男で田原の里に住み、田原藤太秀郷と呼ばれる勇士がいた。このころ、近江勢田の橋に大蛇が横たわって人々の通行を妨げることが あった。これをあやしく思った藤太は、勢田の橋に赴き、大蛇を踏んで平然と通り過ぎた

その夜、藤太は美女(琵琶湖の龍神の化身)の訪問を受け、同じ近江の三上山の大ム カデ退治を頼まれた。快諾した藤太は見事に大ムカデを射止めた

翌朝、女は藤太に巻絹、首を結んだ俵、赤銅の鍋を与えた。俵は米を取り出しても尽 きることがなく、このことから藤太は「俵藤太」と呼ばれるようになった

④ その後、女は藤太を龍宮に伴いもてなした後、引出物として鎧と太刀、釣鐘を与えた。藤太は、鎧と太刀は子孫に伝え、釣鐘は三井寺に寄進し、三井寺では壮大な鐘供養が 行われた

⑤ やがて下総の平将門が新皇を称して反乱を起こした。藤太は将門があまりにも大剛の 勇士であるので、同心して日本国を半分得ようと思い対面したが、将門が軽率な人物 であることに落胆した

 藤太は、ただちに上洛して天皇から将門討伐の宣旨を受けた。その後、三井寺で必勝 祈願を行い再び東国へ向かった

 藤太は後から京を出発した平貞盛と合流し、将門と戦うがそのあまりにも超人的な将 門の姿に正面から戦いを挑むことをやめた

そして、藤太は将門を謀り討ちしようと思い、将門にへつらってその館に移り住んだ。 藤太はそこに住む女房に恋して契り、将門の弱点を聞き出そうとする

藤太は、将門の姿が七体に見えても本体にしか影がないこと、こめかみが急所であることを聞き出し、ついに将門を射殺することができた

将門の首を持って上洛した藤太は、恩賞として従四位下に叙されて武蔵・下野両国を賜 って子孫は将軍に任じられた

藤太の男子は、小山の次郎、宇都宮の三郎、足利の四郎、結城の五郎など数十人に及 び、子孫は大いに繁栄した。これも琵琶湖の龍神の保護によるものであった

● 俵藤太伝説とは一体何か

- 実在の秀郷が「田原藤太」と呼ばれ、近江と関係を持った事実は確認できない

→ 「俵藤太物語」は創作された物語

- 鎌倉時代から段階的に造作されたか

→ 南北朝時代には完成(同時代成立の『太平記』に同様の物語が収録される)

- 題材は秀郷と秀郷流藤原氏を意識している 秀郷=反逆者平将門を討ち果たす

→ 巧みな武芸を駆使し、朝廷を救った英雄

秀郷流藤原氏

・東北の蝦夷と対峙する鎮守府将軍を歴任→ 異形・異界の存在を退治

・全国に展開、京都を守護する役割 → 舞台が京都や近江の瀬田唐橋

※南北朝時代には成立の『日光山縁起』にみえる「戦場ヶ原の戦い」との関連も考えられる

俵藤太伝説とは、秀郷と子孫の秀郷流藤原氏の活躍が後世に集約化されたもの

6. 俵藤太伝説の誕生 ~秀郷の武勇が後世に伝説化~

【主要参考文献】
野口実『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館、2001年) 川尻秋生『戦争の日本史 4 平将門の乱』(吉川弘文館、2007 年) 栃木県立博物館『藤原秀郷 源平並ぶ名門武士団の成立』(2018年)

山本享史「秀郷流武芸故実と下野」(江田郁夫・簗瀬大輔編『中世の北関東と京都』高志書院、 2020 年)

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