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秀郷にまつわる三都物語

栃木の武将「藤原秀郷」とその子孫にまつわる伝説や民話

​宇都宮に伝わる「藤原秀郷」の伝承民話「百目鬼物語」。

御伽草子絵巻で伝わっている俵藤太物語の「近江の大百足退治」。

謡曲で現代に残っている、秀郷の子孫 佐野源左衛門常世の「鉢の木物語」。

​物語は諸説ございますが、「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」の解釈も含めてご紹介いたします!

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百目鬼物語

宇都宮に伝わる「藤原秀郷」の伝承民話。勇猛な武将「平将門」と戦った話を表現している伝説。

百目鬼物語
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​平安時代の中期、950年ごろのお話です。京の名門藤原家の子孫で、下野国(栃木県)の役人として赴任した曽祖父の藤原藤成から下野国に根を下ろし、祖父の豊沢、父の村雄とその位を上げて治めてきた下野国の藤原家嫡流に、藤原秀郷という男がいた。

 

秀郷は、その家柄の嫡男にしては相当なわんぱく者で若気の至り的な行動もあったが、多少正道を外すことはあったとしても、その本質は元気の良い名門藤原家の御曹司であった。下野国の自然の中でのびのびと育ち、成長して当主となった秀郷は、祖父、父の名跡を継ぎ、下野国の官吏として治世に励んでいた。

 

同じ頃、常陸国(茨城県)や下総国(千葉県)に領地を持つ平将門という地方領主がいた。将門は、地方の治世が乱れているのを嘆き、これを正そうと坂東八州に勢力を広げ、自らを新皇と名乗り独立宣言をした。これを「平将門の乱」という。しかし、朝廷からは国に逆らった者とみなされ追討令が出された。その時下野国の押領使(おうりょうし)であった秀郷は、朝廷より将門平定の宣旨(命令)を賜り、それに応えようと宇都宮大明神・二荒山神社に戦勝祈願を行い一振りの霊剣を授かり、これをもって将門軍を討ち取ることが出来た。この功績の恩賞として、秀郷は朝廷から下野国司に任ぜられ、下野国宇都宮の地に館を築き下野国を治めることとなった。さらに鎮守府将軍も拝命した。

 

そんなある日、下野国宇都宮でのこと。秀郷が狩りの帰り道に田原街道の大曽の里を通りかかると、一人の老人が現れ、秀郷に「この北西の兎田というところにある馬捨場に、夜な夜な百の目を持つ鬼が現れ困っている。なんとか退治できないでしょうか。」と懇願するのだった。ならばと、秀郷が得意の弓矢と剣を持ち兎田に行って待っていると、丑三つ時(午前2時~2時30分)の頃、にわかに雲が巻き起こり、両手に百の目を光らせ、全身に刃のような毛を持つ身の丈一丈(約3メートル)もある鬼が現れ、馬捨場の死んだ馬にむしゃぶりつくのだった。

 

その様子たるや、この世のものとは思えないほどの不気味な光景であった。秀郷は得意の弓を引き、最も光る目を狙って矢を放った。矢は鬼の急所を貫き、鬼は苦しみながらも明神山(二荒山神社)の北のふもとまで逃げたが、ここで倒れて動けなくなった。鬼は体から炎を噴き、裂けた口から毒気を吐いて苦しんだため、さすがの秀郷といえども近寄れず手が付けられない状態だったので、その日は仕方なく館に引き上げることとした。

 

翌朝、秀郷は再び鬼が倒れた明神山の北側に行ったが、そこには黒こげた跡が地面に残るばかりで、倒れた鬼の姿は消えていたのだった。それから約400年の時が経って、足利氏が幕府を立ち上げた室町の時代。明神山の北にある塙田村の本願寺で、住職が怪我をしたり、寺が燃えるといった不思議な事件が続いた。そんな時、本願寺では智徳上人という徳の高い僧が住職となり、人々を集めて説教を施す事になった。するとその説教に必ず姿を見せる歳若い娘がいた。実はこの娘こそ400年前にこの辺りで瀕死の重傷を負ったあの鬼の仮の姿だったのだ。長岡の百穴に身を潜め傷付いた体が癒えるのを待ち、娘の姿に身を変えてはこの付近を訪れて、昔の邪気を取り戻すため、かつて自分が流した大量の血を吸いに来ていて、本願寺の住職は邪魔であったため、怪我を負わせたり寺に火をつけたりしていたのだった。智徳上人はその鬼の正体を見破り、鬼は智徳上人の度重なる説教に心を改め、二度と悪いことをしないと誓い、自らの角を折り指の爪を取って寺に奉納し、成仏したのであった。

 

この鬼は、百匹の鬼の頭目であったことから「百目鬼」と呼ばれ、これ以降、この話の舞台であった本願寺のあたりを「百目鬼」と呼ぶようになったという。今も宇都宮の明神山(二荒山神社)の北側には「百目鬼通り」という名が残り、この地方に伝わる夕顔の実のお面「ふくべ面」は「百目鬼」がモデルになったと言われている。

 

また、百目鬼通りに交わる旧道は田原街道と呼ばれ、秀郷の別称である「俵藤太(たわらのとうた)」の俵からそう呼ばれると伝わっている。

[脚注]

下野国(しもつけのくに)=栃木県  

常陸国(ひたちのくに)=茨城県  

下総国(しもうさのくに)=千葉県

坂東八州=武蔵、相模(さがみ)、上総(かみつふさ)、下総、安房(あわ)、常陸、上野(こうずけ)、下野

押領使(おうりょうし)=警察・治安部隊   

国司(こくし)=今の県知事  

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)=武士の最高栄誉職

​大百足退治

御伽草子絵巻で伝わっている俵藤太物語のうちの一つ。舞台は滋賀県大津市近江。

大百足退治
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​朱雀天皇(すざくてんのう)の時代といいますから、今から1100年ほど前、10世紀中頃のお話です。

 

後の天智天皇である中大兄皇子とともに乙巳の変を起こし、大化の改新を進めた藤原鎌足の子孫で、名門藤原氏の直系である下野国の大掾(だいじょう)をつとめた従五位上藤原村雄の嫡男で、下野国の佐野の庄に住む藤原秀郷のちの別名俵藤太と呼ばれる武将がいた。秀郷は、父村雄から先祖藤原鎌足より相伝された黄金づくりの太刀を与えられて以来、その治世の中で数々の手柄をたて多く恩賞を賜った。

 

ある時、秀郷が所用で上京の後、自国の下野に戻る途中の出来事である。秀郷が、近江国の勢田の橋(瀬田の唐橋)を通りかかると、橋の上に大蛇が横たわって通行を妨げ人々が困っていた。そこを通りかかった秀郷は、臆することなく大蛇を踏みつけて平然と渡ってしまった。それを見ていた人々は、「何て豪胆な武将だ!」と驚きまた感嘆した。

 

その夜、近江宿に泊まった秀郷を訪ねて美しい娘が宿にやってきた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の縁者と名乗り、それはそれは不思議な話を語り始めたのだった。実は、昼間秀郷が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたもので、大蛇に姿を変え勇猛な者を探していたというのである。そして娘は、龍神一族が三上山(みかみやま)の大百足に苦しめられていると訴え、秀郷の勇猛さを見込んで大百足を退治してほしい、と懇願するのであった。話を聞いた秀郷は、快くこれを引き受けた。

 

早速秀郷は、藤原家伝来の黄金づくりの太刀と五人張りの大きな弓に十五束三伏の矢三本を持って三上山に向かうと、山を七巻半もする大百足が現れた。秀郷は、得意の矢を射たが、当っても大百足には通じない。とうとう最後の一本になってしまった矢に唾をつけ、「南無八幡大菩薩、願わくばこの一矢、あの大百足に・・・」と祈念して射ると、その矢は見事に大百足の眉間に射止めて、ようやく大百足は倒れたのだった。

 

その後、月の明るい夜更けに再び娘が現れて、秀郷を琵琶湖の湖水の中にある龍宮に招いた。龍宮では、湖水の主の龍王の盛大な饗応を受け、大百足退治のお礼として、巻絹、首を結んだ俵、赤銅の釣鐘を贈られた。俵は、米を取り出しても尽きることがなく、このことから秀郷は「俵藤太」(たわらのとうた)と呼ばれるようになったという。また龍王は、「御身の子孫のために、必ず恩を謝すべし」といって、黄金札(こがねざね)の鎧、黄金作りの太刀を与え、「これで朝敵を滅ぼし、将軍に任ずるように」という。さらに、釣鐘を取り出して「日本国の宝にしてほしい」と与えたのだった。

 

秀郷は、鎧と剣は武士の重宝として子孫に伝え、釣鐘は「三井寺の鎮守である新羅大明神は弓矢神であるから、そこで子孫の武芸を祈るべし」という父村雄のすすめに従って三井寺に寄進することにし、子の千常にその旨を三井寺の長吏大僧正に伝えさせ奉納した。三井寺では、壮大な鐘供養がとり行われた。

 

その後、やがて幾年か時が経った頃、下総の平将門という地方領主が反逆を起こし、関八州を制して平新皇と称し、日本国の新皇となろうとした。これを「平将門の乱」という。朝廷は、武勇優れた秀郷に将門平定の宣旨を出し、秀郷はその宣旨を受け、三井寺の弥勒菩薩と新羅大明神に祈願して将門と相対した。

 

秀郷は平貞盛軍と合流して将門と戦うが、あまりにも超人的な将門の勢力に苦戦下が、ようやく策を巡らし「将門の姿は七体に見えても本体にしか影がないこと」「こめかみが急所であること」を探り出し、ついに討ち果たすことができた。将門を無事に討ち果たした秀郷は、恩賞として従四位下に叙されて武蔵・下野両国を賜り、下野国の地に館を築きそこの国司となった。また秀郷の子孫は、代々鎮守府将軍に任じられることとなった。

 

その後、秀郷の男子は、小山の次郎、宇都宮の三郎、足利の四郎、結城の五郎など数十人に及び、子孫は大いに繁昌したが、これもひとえに龍神の応護によるものであった。かくして、日本六十余州に弓矢をとって藤原と名乗る家に、おそらくは秀郷の後裔でないものはないということになった。

[脚注]

大 掾=律令制下 四等官制(守、介、掾、目)の第三等官の上位官。    

国司などに相当する位。

従五位=日本の位階の位。上位の正一位から少初位まで30階位あった。従五位上は、上から11番目。

近江国=滋賀県   

三上山=滋賀県野津市にある山。別名:近江富士。

三井寺=滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山。正式名称:長等山園城寺

長吏大僧正=三井寺の最高位僧侶の事。

鉢の木物語

謡曲で現代に残っている、藤原秀郷の子孫 佐野源左衛門常世の物語。「いざ鎌倉!」という言葉でも有名な物語。

鉢の木物語
佐野源左衛門

​それは建長五年といいますから今から七百数十年も前、西暦でいうと1253年のお話です。

 

その年のはじめの冬のある日、下野国の佐野の庄は、前の日に降り出した雪が激しい吹雪となって一日中降り続いていました。そんな誰一人通る人のない大雪の夕暮れ近く、佐野の庄に住む武士、佐野源左衛門常世の家の軒下に一夜の宿を乞う旅の僧の姿がありました。

 

その家の主人の常世は、その日の暮らしもままならない貧しい暮らしで、「私の家はあまりに貧しいのでお泊めすることができません。少し行った所に里があるから、そこで頼んでいただければ泊めてくれるでしょう」と旅の僧に勧めましたが、夕刻でもあり、あまりの大雪で歩くこともはばかられる様子を見かねて、迎えて泊めることにしました。

 

常世が「何のおもてなしもできませんが・・・」と旅の僧を囲炉裏端に招き、しばらく囲炉裏の火に暖まると氷のようにつめたくなった手足や体も温み、やっと落ち着いた様でした。そして、妻の白妙が「何もありませんが、どうぞ・・・」と炊き立ての粟の粥をさし上げると、旅の僧は、その粥をおいしそうにいただき、ようやく生き返った心地の様です。体も暖まった旅の僧があたりを見まわすと、その家は古く、隙間だらけのひどいあばら家です。しかし、壁には立派な槍がかけてあり、小さな床の間には、古いものですが鎧兜が置かれています。また主人夫妻の言葉づかいや立居ふるまいなどをみても、「これはただの百姓ではあるまい。武士が何かわけがあってのことであろう」と思いました。

 

そこで旅の僧は、「さしつかえなければ、お名前と今ここにおいでの訳をお聞かせ願いたい。」とたずねますと、常世は「申し上げるほどの者ではございません」と、口をつぐみました。そんな時、妻の白妙が「焚き木がなくなりましたが」と、困った様子です。ふつうなら、充分間に合うだけの焚き木があったのですが、旅の僧のためにいつもよりたくさんの焚き木を燃やしてしまったのです。

 

すると常世は、家の奥に行き三つの鉢植えを持ってきました。見れば、「梅」「松」「桜」のいずれも立派な盆栽です。そして、それをおしげもなく折っては囲炉裏にくべてしまいました。これを見た旅の僧は驚いてとめましたが、常世は「いやいや、焚き木もなくおはずかしい限りです。せめて多少なりとも暖まっていただいてお休みいただこうと思います。」という。旅の僧はますます感心して、ぜひお名前を、とたずねましたので、常世もさすがに隠し切れず、己の身の上を話しました。そして、「私も鎌倉武士の子です。鎌倉幕府に万一大事が起こった時は、『いざ、鎌倉!』と早々に駆けつけて命がけでご奉公する覚悟です。」と語りました。旅の僧は、そんな常世の話にほとほと感心した様子でした。

 

さて、次の日は雪もすっかりやんで、朝日が雪にかがやく晴天になりました。旅の僧は常世夫妻に厚く礼を述べて、次の目的地である出流山満願寺を目指して旅立ちました。やがて月日は経ち、冬から春へ、春から夏、そして秋になった十月末のことでした。鎌倉から招集のおふれが出て、諸国の大名や武士が鎌倉に駆けつけることになりました。

 

常世も、「時こそ来たれり。いざ、鎌倉!」と鎧兜に身をかため、槍と太刀をかかえ、やせ馬にむち打って、勇ましく鎌倉に駆けつけました。すると、鎌倉に集まった諸国の大名や武士の中にいた常世は、幕府の役人から呼び出されました。

 

何事かと前へ進むと、そこにいたのは、あの大雪の晩の旅の僧がいるではありませんか。その旅の僧こそ、何を隠そう、時の執権の北条時頼公であったのです。時頼公は、諸国の大名、武士の面前に常世を呼び出し、「わしは、いつぞや大雪の日、一夜の宿をそちの家でやっかいになった旅の僧である。この度は、あの時の言葉どおり、よく駆けつけてくれた。」と、おほめの言葉があり、大事な「梅」「松」「桜」の鉢木を炊いてもてなしてくれた礼といって、下野の三十六郷のほか、加賀の梅田の庄、上州松井田の庄、越中桜井の庄、の三つの領地を与え大名にとりたてたのでした。

 

昨日に変わる今日の出世、常世はこれで家名をあげることができ、ご先祖にも恩返しができたと涙ながらに喜びました。

[脚注]

佐野の庄=栃木県佐野

出流山満願寺=栃木県栃木市出流町にある坂東三十三観音第十七番札所の真言宗智山派出流山満願寺

執権=鎌倉幕府の職名。鎌倉殿(将軍)を補助し政務全般を統轄した。

下野の三十六郷=下野(栃木県)の36の村落

加賀=石川県南部地域

上州=群馬県(上野国)   

越中=富山県

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