

【会員活動報告】「皆川広照の軌跡」をたどる
2026年8月22日 皆川歴史研究会のパネル展示説明会へ 2026年8月22日(土)、栃木市の「きららの杜 とちぎ蔵の街 学習館」で開催された、皆川歴史研究会によるパネル展示説明会 「戦国を駆け抜けた 皆川広照の軌跡。歴史資料から読み解く 激動の10年」 に、「栃木の武将 藤原秀郷をヒーローにする会」のメンバーで参加してきました。 今回の展示は、皆川氏の菩提寺である金剛寺の所蔵資料を中心に、皆川広照が生きた戦国時代の動きを詳細に読み解いたものです。 会場には数多くのパネルが並び、古文書や絵図、地図などの歴史資料をもとに、皆川広照を取り巻く武将たちや合戦、当時の勢力関係などが丁寧にまとめられていました。 ・歴史資料から見えてくる「皆川広照」 当日は、皆川歴史研究会の皆さんから、展示パネルに沿って詳しい解説をしていただきました。 戦国時代、北関東では佐竹氏、宇都宮氏、佐野氏、北条氏など、さまざまな勢力がせめぎ合っていました。 そうした激動の時代を、皆川広照はどのように生き抜いたのか。 展示された史料を一つひとつ読み解きながら説明を聞


ここから古への想い《3》「本多正純と佐竹義宣」―かつて自分を秋田へ追いやった男を、なぜ義宣は遇したのか—
2026年8月20日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 佐野の新吉水第一公園に本多正純の「吉水陣屋跡」の石碑。そして、戦国時代「東方の衆」として佐野氏が一緒に歩んだ佐竹氏。1585年(天正13)須花の戦いで討ち死にした佐野家16代当主佐野宗綱亡き後養子先候補だった(候補は誰だったんだろう?) 歴史には、不思議な巡り合わせがある。 慶長7年(1602)、常陸54万石余を領した佐竹義宣は、徳川家康によって出羽へ移された。先祖代々の地・常陸を離れ、秋田・仙北を中心とする地へ。その後の石高は約20万石余となり、佐竹氏にとっては大きな転機となった。原因としては関ヶ原の戦いでの曖昧な中立、上杉景勝との密約説などあるが、しかし、本音は50万石、5万の兵力を有する外様大大名を江戸近く置くのは危険と思ったのではと┅私の推測です. この転封をめぐっては、本多正信・正純父子の存在が伝えられている。『梅津政景日記』に関係する記事では、佐竹氏ほどの大大名には出羽一国を与えるべきだという意見に対し、「出羽一国では常陸と変わらない」として、半国程


【会員活動報告】佐野支部恒例ブラ散歩《6》「唐沢山神社、風鈴参道」へ
2026年8月8日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 「唐沢山神社、風鈴参道」へ 今日のお目当ては親交がある「たきがわ よしひろ」さんの「和楽器納涼ライブ゙」 午後6時相乗り一台で行ったのですが、駐車場は既にほぼ満車、やっと一番遠い所に止められた。 かなりの距離がありましたがゆっくり社殿へ向かうと、通りすがりに「こんにちは、こんばんは」見たことある方々がたくさん┉ 食い違い虎口広場では「秀郷太鼓チーム」の熱演ライブ、私たちはオリジナル提灯借りてテクテクテク┉ 予報ではこれから雲行きが怪しいとのこと、「ゲリラ豪雨」が忍び寄ってきている? 気合いを入れて和服で参加のMさん、さすがに足元は草履ではヤバイのでスニーカー? さて、風鈴参道をくぐり抜けてライブ会場の拝殿へ。お参りを済ませた後、雲行きを心配して先にたきがわさんとシックス?ショット。 いよいよ開演「令和8年8月8日午後8時から8時間?の記念ライブの予定でしたが天気が怪しいので開始時間を繰り上げ時間も短縮することにいたしました、ごめんなさい。」 ...


【会員活動報告】藤原秀郷流を訪ねて《13》「船越六郎と二つの神社」
2026年7月5日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 船越六郎と二つの神社 先日、「藤原秀郷をヒーローにする会」宇都宮での会合に途中参加、「藤原秀郷を是非大河ドラマに」と盛り上がり「では、主役の秀郷は誰にしましょうか?」。すると会員の舩越さんから「2時間ドラマの帝王、船越英一郎でしょう、本人も秀郷の子孫だと自負していますから」。実は、会員のこの舩越さんも秀郷の子孫と自負している一人です、なるほど。 周囲の人からは「荘厳な昭和の大河ドラマならありかもしれませんが、今の大河ドラマはコメディ色あり、加えて史実を越えたフィクションも多い。若い人向けの役者陣ですからね」と切り返し、大河ドラマ談義の尽きない楽しい時間でした。 10年以上前にNHKの「ファミリーヒストリー」と言う番組で船越英一郎さんが出演、 先祖が藤原秀郷で旧田沼町船越町(現在の佐野市)住んでいたと話していたことを思い出し調べてみると、英一郎氏は船越家34代目(本家か分家は不明)になるとの記事を発見、俄然やる気モードに突入。 船越家ってどんな家? 藤原北家秀郷流佐


『天王祭』境内神楽殿での奉納演芸! 2026年7月19日開催
栃木の武将「藤原秀郷」をヒーローにする会は、 昨日、宇都宮二荒山神社・天王祭において、奉納演芸を務めさせていただきました。 梅雨の晴れ間にも恵まれ、多くの皆様にご来場いただき、盛況のうちに終えることができました。 今年は、当会が活動を始めて10年という節目の年。 その節目に、藤原秀郷公ゆかりの宇都宮二荒山神社の神楽殿という特別な場所で、奉納という形で講演の機会をいただけたことを、大変光栄に思います。 当会の講座ではおなじみとなった「岡田さん&水野先生」の講演では、秀郷が二荒山神社にて戦勝祈願をしたことが記されている『二荒山神社由緒書き』を題材に藤原秀郷公の功績や二荒山神社との深い関わりをご紹介。 続いて当会の動画アニメーションでも語って貰っている、宮の語りべ有岡光枝さんの『宇都宮の妖怪、百目鬼退治』を話していただきました。 ・アニメーション→https://youtu.be/FPys2nowXtM そして大トリは、オリジナル講談、「宇都宮の宇の字を取ってウットリ」の”都 宮子”さんの登場! 『瀬田の大百足退治と将門討伐』をご披露いただきました


【会員活動報告】宇都宮の奥州街道を歩いてみた!
2026年6月12日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 専務理事 岡田康男 宇都宮の奥州街道を歩いてみた! 宇都宮が関東の重要拠点であったといわれる訳の一つ、それは・・・ 江戸時代に定められた主要幹線道「五街道」の内二つの街道「日光街道」と「奥州街道」が通っている珍しい街であるということで、それだけみても重要な町であり地域だったことがわかる。 ということで、今回は、われらがヒーロー「藤原秀郷」とは直接的には関連ないが、秀郷などから生まれたその後に続く武士の時代の約600数十年後の江戸時代初期、重要な都市であった宇都宮の街なかを貫く「奥州街道」を歩いてみようと思う。 ●まずは五街道について(※当時は「街道」ではなく「道中」といった) 江戸時代はじめの1601年(慶長6年)、徳川家康が整備し始め、二代将軍秀忠の時代に基幹街道として定められた五つの街道。江戸・日本橋(または江戸城大手門)を起点に地方へ向かった「東海道」「日光道中」「奥州道中」「中山道」「甲州道中」の五つの陸上幹線道のこと。1716年(享保元年)五街道の正式名称が定められた。 ▶︎


【会員活動報告】藤原秀郷流を訪ねて《12》
2026年6月12日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 会津阿弥陀寺と南摩綱紀 今年も会津鶴ヶ城にやって来た。凄腕ガイドさんに案内されてバッチリ3時間のはずだったが、1時間で終了「あれ?」。さてどうしましょう? みんな思い思いに散っていく、「鶴ヶ城から移築した三重櫓がある阿弥陀寺へ行ってみる?」 仲良し三人組、いつものYちゃんと賑やかKさん、ついでだから大正レトロ、七日町通りをチラ見。新撰組ショップ、駅カフェに立ち寄り阿弥陀寺へ。 会津鶴ヶ城 「おっ、ここだね」なにやら石碑がいっぱいある。奥に行くと1874年(明治7)に鶴ヶ城から移転されたレトロ三重櫓が見えてきた。「密会所?だったらしいけど、どの辺りにあったのかなぁ~」、「茶室の辺りだったらしいよ」二人の会話をよそに石碑が気になってしょうがない私。 藤田五郎って誰、斎藤一だね、明治まで生きた数少ない新撰組の三番隊長だ。それから、萱野長修(権兵衛)。確か、大河ドラマ「八重の桜」では柳沢慎吾が演じていた会津藩の家老、主君松平容保(かたもり)をかばい責任をとり自害したと言う。石


第17回 藤原秀郷 交流会『歴史カフェ』2026年6月20日開催
今回の交流会は、「藤原秀郷に続いた東国武将たち」をテーマに、宇都宮二荒山神社の由緒書を読み解きながら、東国武士たちが受け継いだ“武の祈り”と、宇都宮という土地、そして藤原秀郷が果たした歴史的役割を探りました。 「神社に行ったら読むけれど、なかなか頭に入らない……」 そう、神社の「由緒書き(ゆいしょがき)」には難しい言葉が並んでいて、スムーズに読み解くのは一苦労ですよね... 下野一の宮(しもつけいちのみや)である「宇都宮二荒山神社」に祀られている神様は、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。 名前からして少し難解ですが、第10代・崇神(すじん)天皇の第一皇子で、東国を治めた「戦いの神」とされています。 実は、源頼朝の奥州征伐(1189年)までは、栃木より北の地はまだ朝廷の支配が十分に及んでいない地域でした。そのため、頼朝も奥州征伐に向かう際には、宇都宮二荒山神社で戦勝祈願を行っています。 ただ、頼朝よりも前に、武士の誉れと称される「八幡太郎義家(源義家)」、そして我らが『藤原秀郷(ふじわらのひでさと)』による戦勝祈願が先立ってありました。秀


佐野昌綱 さのまさつな
No. 67 【佐野昌綱】 さの まさつな Sano Masatsuna 唐沢山城を拠点に、上杉謙信や後北条氏という二大勢力の狭間で巧みな外交と驚異的な粘り強さを発揮した戦国武将。度重なる巨大勢力の侵攻を受けながらも、本領を維持し、佐野氏の独立性を守り抜いた。 【別称】小太郎 【時代】戦国時代〜安土桃山時代 【生誕】享禄2年1529年 【死没】天正2年4月8日1574年 【墓所】栃木県佐野市 本光寺 【官位】不明 【氏族・血族】秀郷流佐野氏 【在所・所領】下野国佐野 【由縁の場所】唐沢山神社(唐沢山城址) 【家系・系譜】 父:佐野泰綱 兄弟:豊綱、房綱、祐願寺 子:宗綱、桐生親綱、虎房丸、正慶 ■上杉謙信を悩ませた唐沢山城の名将 佐野昌綱(さの まさつな)は、藤原秀郷の流れをくむ佐野氏第15代当主であり、戦国時代の唐沢山城主です。 昌綱の名を語る上で欠かせないのが、「越後の虎」上杉謙信との攻防です。 一般には、1559年(永禄2年)、北条氏政の大軍に包囲された昌綱を救うため、上杉謙信が少数の兵で敵中を突破したという逸話が知られています。しか


【会員活動報告】藤原秀郷流を訪ねて《11》
2026年5月18日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 新緑の向羽黒山城と信夫佐藤氏 北関東山城会、福島会津オフ会メインは向羽黒山城。 実は私四度目、しかしデカ過ぎて未だによくわからない。 今回も凄腕ガイドさん?あっ、昨年と同じ人だ。 のぼり旗には「最大……級」とあるが……「最大と言い切るとクレームが来る恐れがありそうで…」とガイドさんは苦笑い。 続いてガイドさんは挨拶の中で、更新されない通説にチクリチクリと苦言を呈し、最新情報+持論を展開する。気合い十分、素晴らしい。 例によって総勢14人、最初は遠足並にぞろぞろと進むが……間もく、そう、放し飼いの如くはじけて、収拾がつかなくなる。いつものことなのてすが…。 こちらウンチク組みの仲良し三人、私と、なんでなんでのYちゃん、裏付け理論派のAさん。 この城は1561年(永禄4)蘆名盛氏創建と言われていますが……。 Y「なんで、堀も土塁も何本も作り、しかも丁字にぶつかり、迷路みたい」 A「あのね、盛氏君は心配性なんだよ」 Y「土塁の片側にだけ土留めの石垣、これどう言う意味?」..

