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その3 秀郷と将門 宿敵の間に友情関係はあったか?

その3 秀郷と将門 宿敵の間に友情関係はあったか?

水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!

 

栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)では、『将門記』や『俵藤太 下巻』など同館が所蔵する藤原秀郷と平将門に関わる史料も数多く展示されています。『俵藤太 下巻』は、「俵藤太」こと秀郷が分身した7人の将門から本物を見抜き、見事こめかみを射抜く場面が見られるようになっています。『俵藤太物語絵巻』を基に江戸時代に描かれたようです。

この2人、藤原秀郷と平将門の関係はどうだったのでしょうか?



 

「俵藤太物語」将門の粗忽さに幻滅した対面

 

『御伽草子』(室町物語集)の「俵藤太物語」では、秀郷は降伏のふりをして将門の屋敷に入り込んで女房から将門の弱点を聞き出し、夜間に将門を暗殺します。また、その前には秀郷と将門の対面場面もあります。大喜びで秀郷を迎える将門は、髪も結わずに出迎え、食事を振る舞いますが、米粒をボロボロこぼすといった無作法で粗忽(そこつ)な姿を見せ、秀郷は幻滅。「この者が日本の主(あるじ)になるなど考えられない」と、ひそかに将門討伐を決意するエピソードです。

この対面場面は『吾妻鏡』や『源平盛衰記』でも上総広常が話題する形で出てくるので『御伽草子』ができる前から知られていたようです。


しかし、こういった場面は『将門記』には一切ありません。

『将門記』では、秀郷と将門の対面場面もなく、それぞれ軍勢を率いて野外での決戦に臨みます。「俵藤太物語」はフィクションと捉えられています。



 

『将門記』最終局面で唐突に登場する秀郷

 

『将門記』では最終局面で唐突に秀郷が登場します。将門は現在の茨城県南部、秀郷は栃木県南部と活動地域が近かったにもかかわらず、940年(天慶3年)2月の決戦まで秀郷と将門は接触も対決もありません。

秀郷は将門を討伐し、2人は不俱戴天の敵ということになりますが、秀郷の前半生の行動は将門と似ているところがあります。


916年(延喜16年)8月と929年(延長7年)5月に、朝廷から秀郷の逮捕、追討命令が出ています。実際に逮捕された記録はなく、この後も勢力を保っているので国司の力では秀郷を抑えられなかったようです。これは939年(天慶2年)11~12月に常陸、下野、上野の国府を連続で制圧した将門と重なります。

2人は同質の荒くれ者、ならず者。将門の大規模な軍事行動に対し、秀郷はすぐ近くにいながら傍観していたのでしょうか? この点は大きなナゾ。交渉がなければ、とっくに激突していたはずですが……。


また、将門の行動は秀郷を見習っている感じもあります。国司の苛政に対する反抗心とか地域の民衆への視点とか共通の考え方があり、想像を飛躍させれば、厚い友情があった可能性も……と思うのです。


それではなぜ、秀郷は将門と対決したのか。もちろん朝廷からの命令があったからですが、国司を追い出した後の将門の治政が秀郷の理想とは大きくかけ離れていて決裂したのではないでしょうか。秀郷も将門も信念を曲げることはできなかったのです。




詳しくはこちらもごらんください👇

 

「藤原秀郷」平将門の乱を鎮圧した武将の実像とは | 戦国ヒストリー 

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