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その5 『将門記』たとえ満載、迫力あるユニーク文体 時に盛り過ぎも

その5 『将門記』たとえ満載、迫力あるユニーク文体 時に盛り過ぎも

水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!

 

栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)で『将門記』が展示されています。同館が所有しているのは江戸時代に書き写された写本。「平将門の乱」の顚末を描いた軍記物で、藤原秀郷が将門を討った状況も書かれた貴重な史料です。その文体は漢文で、駢儷体(べんれいたい)という対句、比喩を多用したスタイルです。



 

倒れる将門の巨体は中国伝説の大魔神に…

 

いきなりクライマックスを見てみます。940年(天慶3年)2月14日、秀郷の軍勢に敗れた将門の最期は、こう書かれています。

〈馬は風のように飛ぶ歩みを忘れ、将門は梨老のような優れた武術を失った。将門はいつの間にか神仏の射た矢に当たり、ついに蚩尤(シユウ)が涿鹿(タクロク)の野に戦って敗れたように一人寂しく滅び去った〉

現代語訳は『坂東市本将門記』や「新編日本古典文学全集」(小学館)などを参考にし、さらに、「人」とか「新皇」と記している部分を「将門」に置き換えたり、代名詞を固有名詞に置き換えたりしました。


この場面では倒れる将門の姿が「蚩尤」という神にたとえられています。蚩尤は獣の身体に銅の頭、鉄の額を持ち、魔神というか見た目は化け物。中国・三皇五帝の一人、黄帝(コウテイ)に涿鹿の戦いで敗れました。まどろっこしくて、かえって分かりにくのですが、『史記』にも登場します。倒れる巨人・将門のたとえとして当時は絶妙な表現だったのかもしれません。

なお、涿鹿は河北省の地域。ここで蚩尤を倒し、黄帝は即位したという伝説です。梨老は老人のことで、少し前の部分で養由(ヨウユウ)という弓の名手を指しています。


最終決戦の2週間前にさかのぼり、940年2月1日の川口村の戦いの場面を見てみます。秀郷軍に合流した平貞盛が兵を鼓舞してこう言っています。

「将門軍はまるで雲の上の雷(いかずち)のようで、こちらはまるで厠(かわや)の底の虫のようだ。だが、将門に道理はなく、こちらは天の助けがある」

かなり極端な比喩ですが、将門に勢いがある一方、秀郷・貞盛軍は数ばかり多くて弱兵だと認めた上で公的な任務であることを強調。「士気を高めて戦え」と続けます。この川口村の戦いの場面も〈それぞれ李陵王のような勇猛な心を強め……〉と、いちいち古代中国の軍人を持ち出して奮戦ぶりを表現しています。



 

やり過ぎて意味不明?解釈難解な部分も

 

『将門記』では秀郷の登場場面は多くありませんが、川口村の戦いの数時間前、秀郷挙兵と聞いて将門が下野に侵攻した際、将門軍の前衛部隊をコテンパンにたたきのめします。

〈道を知る者は弓の弦のように逃げ去り、道を知らない者は車のようにぐるぐると駆け回った。生き残った者は少なかった。ついに滅んだ者は多かった〉

弦のように逃げるとは意味不明ですが、「弦から弾かれた矢のように」真っ直ぐ飛ぶように逃げたと解釈されています。


このほか、部下の忠告を退ける将門は「口から出た言葉は四頭だての馬車も追いつかない。言葉に出したことを成し遂げないわけにはいかないのだ」と激怒。言葉の勢いを馬車の速さにたとえているのがユニークです。

将門が関東を制圧した際は〈将門の言葉を聞き、諸国の長官は魚のように驚き、鳥のように飛び立ち、急いで京へ上った〉。貴族があわてふためくさまが描かれています。

将門軍が下野国府を襲撃する場面は〈武将は龍のような馬に乗り、皆、雲のように多くの兵を率いていた。鞭を上げ、馬蹄の音を響き渡らせて、まさに万里の山を越えようとしている〉と将門軍の猛烈な勢いを迫力ある比喩で表現しています。


ただ、盛り過ぎ、装飾過剰のきらいも。やり過ぎて何を言っているのか分からず、解釈が定まっていない部分も結構あります。

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