top of page

その6 藤原秀郷と「俵藤太」は別人? その不思議な関係

その6 藤原秀郷と「俵藤太」は別人? その不思議な関係

水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!

 

栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)では、『俵藤太物語絵巻』など藤原秀郷の異名「俵藤太」に関する同館所蔵史料が展示されています。『絵巻』上巻は俵藤太の大ムカデ退治の名場面、下巻は平将門を討伐して鎮守府将軍に任命される場面です。

藤原秀郷を主人公とした『御伽草子』(室町物語集)の「俵藤太物語」ですが、秀郷の実像とはほど遠く、果たして「俵藤太」は本当に秀郷の異名だったのか、別人ではないのか、という感覚さえあります。いったい俵藤太とは誰なのでしょうか?



 

『今昔物語集』には「田原藤太」も登場するが

 

いったい誰?と言ったところで、「俵藤太とは藤原秀郷に決まっている」と言われれば、まったくその通り。秀郷の異名です。ただ、秀郷本人が名乗っていたかは疑問があります。後世の人々によって創作された異名なのではないかと思うのです。


『今昔物語集』(25巻・第5話)に秀郷の子孫・藤原諸任(もろとう)という武士が登場、「田原藤太秀郷の孫なり」とあり、平安時代後期には既に「田原藤太」の異名が知られ、おそらく秀郷自身が名乗っていた通称だったとする推定も成り立ちます。

しかし、秀郷と田原の地が結びつきません。現存する『今昔物語集』の写本は江戸時代のもの。写本を重ねる間に加筆されたと疑う余地もあります。

「藤原氏の長男」を意味するであろう「藤太」の仮名は大いにあり得るとして、「田原」の苗字はナゾ。本人か祖先が田原の地との深く関係していなければなりません。しかし、諸説ある田原の地との結び付きは、むしろ秀郷の子孫の伝説です。秀郷本人との関係は不明です。



 

『俵藤太物語』実像とはかけ離れた秀郷の姿

 

そして、「俵藤太」の異名は「俵藤太物語」で登場したもので、少なくとも秀郷本人が名乗ったものではありません。もちろん「田原」からの連想で「俵」となったとみるべきですが。

「俵藤太物語」は大ムカデ退治と平将門討伐が描かれており、「藤原秀郷=俵藤太」のイメージが決定付けられました。「田原藤太秀郷」が大ムカデ退治の謝礼として、出しても出しても尽きない米俵を贈られ、「俵藤太秀郷」を名乗るようになるというストーリーです。


この物語に登場する俵藤太は藤原秀郷の実像とは大きく違います。

京で朝廷に仕える武士として登場し、所領を得て下野に向かいますが、実像の秀郷はもともと下野の住人。京で過ごしたことがあるのかどうかは不明です。

また、将門討伐は合戦ではなく屋敷内の暗殺といったほかの史料にはない独特の展開。史実をベースにしたものではなく、まったくの創作なのです。


そして、地元・栃木県内をはじめ、伝説や民話に登場する藤原秀郷は「田原藤太秀郷」の名で登場します。「俵藤太物語」の影響は大きいのか、物語成立以前から「田原藤太」の異名が浸透していたのか……? 「田原」の苗字と秀郷の関係はまた別の機会に検討する必要がありそうですが、「藤原秀郷」と「俵藤太」の関係はとても不思議です。


言うなれば、一人の人物の中に実像としての「藤原秀郷」、フィクションの主人公「俵藤太」の両面があるのです。現代にたとえれば、有名俳優のハマリ役の役名が芸名(本名)同等、その役者の代名詞になっているようなものでしょうか。

bottom of page