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その8 皆川広照 家康の伊賀越え同行? 決死の小田原脱出

その8 皆川広照 家康の伊賀越え同行? 決死の小田原脱出

水野先生の短編コラム

当会顧問の水野拓昌先生にコラムを書いていただきました!

 

栃木県立博物館テーマ展『藤原秀郷とその末裔たち』(2025年2月22日~3月30日)では、藤原秀郷の子孫として長沼氏とその系統である皆川氏の史料の展示が充実しています。その中に金剛寺所蔵の皆川広照像、伝皆川広勝像があります。金剛寺は皆川城跡(栃木市)の近くにあり、皆川氏の菩提寺。広照の兄・広勝の肖像画の展示は極めて珍しいようです。

また、皆川文書の「徳川家康書状写」には「蜷川」との誤記がありますが、同じ誤記は『信長公記』にも見られ、家康、信長と関係を持った当初の状況が伝わる史料。「みながわ」と「にながわ」を聞き間違えられたのです。


 

宇都宮氏、北条氏と離反繰り返し…波瀾万丈

 

皆川広照は、個人的にイチ押しの戦国武将です。

宇都宮氏からの離反や北条氏滅亡時、いち早く徳川家康に臣従したことで処世術に長けたイメージが強いのですが、広照の魅力はそれだけに収まりません。宇都宮氏、北条氏、徳川氏との関係でそれぞれアップダウンがあり、ピンチの連続。何といっても波瀾万丈なのです。

宇都宮氏との関係では、1572年(元亀3年)1月、新年挨拶時に宇都宮城を占拠し、城主・宇都宮広綱を人質に取るという離れ業を父・皆川俊宗とともにやってのけます。

北条氏には長く抵抗し、その奮戦も非常に武将らしい痛快さや悲劇性があります。最終的に北条氏に従いますが、豊臣秀吉の小田原城攻めでは、大軍同士のにらみ合いの中、100騎で小田原城脱出を決行し、北条氏との共倒れを免れています。

綿密な計画と大胆な行動力があって成功した決死の行動です。



 

家康六男・忠輝への諫言と失脚、そして復活

 

皆川広照と徳川家康は早くから書状のやり取りがあり、関係を深めていたようです。江戸時代の『寛永諸家系図伝』によると、1582年(天正10年)、本能寺の変の直前、家康に同行して安土城で織田信長に面会しています。

本能寺の変で窮地に陥った家康は、「神君伊賀越え」といわれる決死の逃避行で命からがら領国に帰還。その直後、北条氏と争い、山梨県あたりで対陣しますが、家康の陣に皆川広照がいました。広照は安土城から「伊賀越え」を含めて家康に同行していた可能性があります。家康と北条氏の和睦交渉では広照の通行許可も交渉案件となっています。

また、皆川広照は後に家康六男・松平忠輝の養育係、家老として仕えます。忠輝の粗暴さをたびたび諫言。1609年(慶長14年)には、忠輝の不行状を家康に訴え出ますが、忠輝の弁明で逆に広照が処罰を受け、所領没収に。

悪ガキのしつけに失敗したようにもみえますが、忠輝の周りには妻・五郎八(いろは)姫の父に伊達政宗、家老には死後、巨額の不正蓄財が発覚する大久保長安といった野心満々のうさん臭い人物がそろっています。こうした人物たちとの暗闘が……とは妄想でしょうか?

なお、皆川広照は1623年(元和9年)に大名として復活。14年ぶりのカムバックです。




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神君伊賀越え秘話? 同行した坂東武士がいた? | 戦国ヒストリー

 

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