比企能員 ひき よしかず
最終更新: 2020年11月13日

番外編File No. 01 【比企能員】 ひきよしかず hiki-yoshikazu
藤原秀郷流の名家で将軍・源頼朝や頼家を支えたが、政権争いの中で不運な最後をとげる。
【時代】平安末期〜鎌倉初期 【生誕】不詳 【死没】建仁3年1203年 【別名】藤四郎、判官、 【墓所】鎌倉市大町 妙本寺 【官位】右衛門尉 【幕府】鎌倉幕府 十三人の合議制 【主君】源頼朝 頼家 【氏族】藤原北家秀郷流比企氏
■比企能員の生い立ち
鎌倉幕府の有力御家人で藤原秀郷の流れをくむ名門比企氏の当主。
源頼朝の乳母である比企尼の甥で、 源頼朝の鎌倉幕府成立とその後の鎌倉幕府を支えた有力な御家人の一人。
源頼朝の乳母で伊豆配流中も頼朝に奉仕した比企尼の甥にあたる。その縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となる。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になっている。
■能員に託された重要な役目
頼朝挙兵以来戦功を立て,信頼を得て重用され, 元暦元年(1184年)5月、源義高討伐のため信濃国に出陣。
同年8月、平氏追討に従軍。 元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだのち、捕虜として鎌倉に送られた平家の棟梁・平宗盛と頼朝が御簾越しに対面した時、頼朝の言葉を伝える役目をしている。
上野国・信濃国守護となり、文治5年(1189年)の奥州合戦には北陸道大将軍、建久元年(1190年)の大河兼任の乱には東山道大将軍として出陣。
頼朝上洛に際しては、随兵7人の内に選ばれ、娘の若狭局は二代将軍・頼家の妻となり,一幡 (いちまん) を産むなど、鎌倉幕府においては政界一の勢力となった。
比企能員の台頭を恐れた北条時政との対立により、のちに時政の陰謀ともいわれるが「比企能員の変(比企の乱)」が起こり、それが元に比企一族は滅亡した。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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