源頼朝 みなもとよりとも
最終更新: 1月8日

File No.14
【源頼朝】
みなもとよりとも
minamoto_yoritomo
関東武士をまとめて、関東で初めて武家政権を確立した。
YORITOMO established Samurai's goverment for the first time in Kanto area.
【官位】正二位 征夷大将軍
【生年】久安3年
【没年】建久10年 (1147〜1199)
【氏族・血族】
清和源氏為義流 河内源氏
正室は、北条時政の娘、北条政子
初めて武士の政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍。
■源頼朝の生涯
源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くで生まれる。
三男だが母が正室であったため、源氏の嫡流として育てられた。
幼名は「鬼武者」。
父義朝は平治の乱に破れ、鎌倉に落ち延びる途中で殺された。
頼朝は平家軍に捕らえられたが、平清盛の母の助命嘆願で助かり、伊豆の蛭ヶ小島に配流となった。
配流の伊豆で、土地の土豪北条時政の娘政子と知り合い結婚。その後の長い雌伏の時を経て、治承四年(1180)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へ動き始める。
途中、従兄弟で木曽のライバルだった木曾義仲との争いや、強大に朝廷を操る後白河法皇との確執もあったが、長い合戦の末ついに平家を倒し、建久三年(1192)に征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立した。
■頼朝の死後
建久10年(1199)正月、落馬がもとで亡くなった。
頼朝が亡くなった後の源氏の運命は悲惨であった。
長子・頼家は二代将軍、二子実朝は三代将軍になったものの、実権は北条を中心とする武士団に握られ、治世からは遠ざけられ、最後には非業の死を遂げた。
そしてその後の鎌倉幕府を継いだのは、政子とその一族の北条氏であった。
頼朝が苦労して築き上げた源氏の鎌倉幕府は三代でその幕を閉じたが、関東に初めて武士による新しい幕府を開いた頼朝は、真面目で偉大な政治家でもあったと言えよう。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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