寒川尼 さむかわに

No.15
【寒川尼】
さむかわに
Samukawani
【別称】寒河尼(さむかわのあま)、網戸尼(あじとに)
【生年】保延3年1137年
【没年】安貞2年1228年
【時代】平安時代後期〜鎌倉時代初期
【氏族・血族】宇都宮氏二代、八田宗綱の娘
【墓所】称念寺(小山市網戸)
【由縁の場所】小山市/祇園城址/鷲城址
【家系】
父:八田宗綱(一説には宇都宮朝綱)
夫:小山政光
子:(義子)小山朝政、長沼宗政、(実子)結城朝光
宇都宮氏の二代、八田宗綱の娘として京都で生まれ、女房として近衛天皇に仕えたといわれる。(一説に、宇都宮氏三代宇都宮朝綱の娘という説もある)その人格人望から源頼朝の乳母の一人となる。その後、小山政光の後室となり、その子たちをその後の関東武士の指針となるべく育てたという。
■ 生涯について
治承4年1180年源頼朝が平氏打倒と兵を挙げた時、夫の小山政光は役目があり上京中で不在だった。
当時武士の妻は、夫の不在中、その権限を取り仕切るのが慣習であった。そのため寒河尼は、夫に変わり急遽当時14歳の末子(のちの朝光)を伴い頼朝の宿所に駆けつけた。
寒川尼と頼朝は、往事(乳母時代)の思い出などを語り、寒川尼は我が子・朝光を側近として奉公させたいと申し出、頼朝は自ら、朝光の烏帽子親(えぼしおや:仮の親)となって元服させ、小山七郎宗朝と名乗らせた。(後に朝光に改名)
この寒川尼の行動によって、下野国最大の武士団小山氏が頼朝方についたことになり、このことは北関東の武士団のその後に、決定的な影響を与えたといわれている。
■ 女地頭 寒川尼
文治3年1187年、寒河尼は「女性たりといえども、大功あるによる也」として下野国寒川郡ならびに網戸郷の地頭職に任ぜられ、文字通り女地頭となった。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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