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【番外編1】鎌倉殿の13人・・悲報!比企尼に比企能員「源頼朝を育てた比企尼に、頼家を育てた比企能員」吾妻鏡から見た本当の話



水野拓昌先生コラム:番外編

ライター:『鎌倉殿と不都合な御家人たち 「鎌倉殿」の周りに集まった面々は、トラブルメーカーばかり?』(まんがびと)『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌


■ 鎌倉殿と秀郷流 3人の乳母と秀郷流武芸と秀郷流の13人


第1部 鎌倉殿と3人の乳母

〈第1話〉頼朝を育てた秀郷流の乳母

「鎌倉殿」源頼朝に従う有力御家人の中には多くの秀郷流藤原氏の武家がいた。このことはあまり注目されていないが、重要である。秀郷流藤原氏が頼朝を支え、鎌倉幕府を支えていた。

秀郷流藤原氏とは藤原秀郷の子孫の家々である。源氏、平氏と並び数多くの有力武家を輩出してきた。

藤原秀郷は平安時代中期、平将門の乱(935~40年)を制圧した比類なき名将である。武士としては源氏、平氏に並ぶブランドであり、藤原秀郷をルーツとすることを誇る武家が多かったのだ。

鎌倉幕府の有力御家人には、源氏も平氏も多いし、そのほかの氏族もいるが、同じように秀郷流藤原氏も代々、源氏嫡流との縁が深く、そうした経緯から頼朝が信頼し、重用する武家も多かった。もちろん平家に従った秀郷流藤原氏の武家もある。


◆頼朝の乳母は5人?

頼朝と秀郷流藤原氏との関わりで重要なのが乳母(めのと)である。

乳母は「うば」とも「めのと」とも読み、母代わりの存在。生まれたときに乳を与え、幼少時の養育も担う。乳を与えるのは生後わずかの期間だから、むしろその後が重要で、幼少時のしつけも担当し、教養を身に着けさせる教育係でもある。成長期に大きな影響を与える存在でもある。

乳母を出す家は後継者養育を任せるわけだから、信頼できる家臣の家に限られる。乳母の夫も重要な家臣だし、その家の子は乳母子(めのとご、うばこ)といって幼少時から主君とともに育つ遊び仲間となる場合もあるし、最も気心知れた忠臣と成長することが期待される。

頼朝の乳母として家族関係などがある程度分かっている3人の女性がいて、いずれも秀郷流藤原氏の武家の妻である。

寒河尼(さんがわに)、比企尼(ひきのあま)、山内尼(やまうちのあま)の3人だ。

寒河尼は小山政光、比企尼は比企遠宗、山内尼は山内首藤俊通の妻。頼朝の父・源義朝の家臣には秀郷流藤原氏の武家が多かったのだ。

史料に見える頼朝の乳母は、寒河尼、比企尼、山内尼のほか、三善康信の伯母と摩々尼(ままに)がいる。すると、頼朝の乳母は分かっているだけで5人なのかというと、そうとも言い切れない。


◆正体不明の乳母・摩々尼

摩々尼について『吾妻鏡』にいくつか記述がある。

〈1〉頼朝に乳を与えた若い女性が、今では尼となって「摩々」と呼ばれ、相模・早河荘(神奈川県小田原市)に住む。(1181年閏2月7日)

〈2〉早河荘の年貢免除。頼朝が(摩々尼を)憐れんだ。(1181年11月29日)

〈3〉源義朝(頼朝の父)の乳母が参上。早河荘の知行を命じられる。(1187年6月13日)

〈4〉義朝の乳母・摩々局(ままのつぼね)が早河荘から参上。92歳。(1192年2月5日)

1192年(建久3年)で92歳とあり、1101年(康和3年)生まれとなる。頼朝が誕生した1147年(久安3年)は47歳で、頼朝に乳を与えた若い女性という説明と矛盾する。また、源義朝の乳母か頼朝の乳母か、ごっちゃになっているが、1123年(保安4年)生まれの源義朝の乳母とした方がすっきりする。

なお、摩々局、摩々尼は母娘で、それぞれ源義朝の乳母、頼朝の乳母とする説もあるが、単なる表記の揺れで同一人物とみる方が素直だ。また、摩々尼を山内尼と同一人物とする説もある。


◆有力文官・三善康信の伯母

三善康信の伯母に関する『吾妻鏡』の記述は少ない。三善康信について「母は頼朝の乳母の妹」と説明(1180年6月19日)。これだけしか分からない。

三善康信は鎌倉幕府の有力文官で、頼朝死後、「鎌倉殿」の地位を継いだ源頼家を補佐し、またその独裁を抑えるための政治システム「13人の合議制」のメンバーでもある。

つまり、「鎌倉殿の13人」の一人だ。

京から鎌倉に移って頼朝を支え、問注所執事(長官)を務めた。問注所は裁判事務を仕切る役所。裁判といっても、御家人の地位や所領に関する紛争を裁き、処罰を決めるわけだから政治そのものである。

三善康信は、流人だった頼朝に京の情報を月に3度送った。平家全盛期の政治犯罪人である頼朝を支援させた伯母は、頼朝の乳母の中でも重要な人物だが、出身や嫁ぎ先の情報はない。比企尼か山内尼と同一人物の可能性を指摘する見方や、3人の乳母のいずれかとする解説も散見される。


◆結局、頼朝の乳母は4人?

だが、寒河尼(1138年生まれ)と三善康信(1140年生まれ)は同年代で、三善康信の伯母と寒河尼が同一人物という説は成り立たない。

山内尼と同一人物という可能性も低い。山内尼の実子・山内首藤経俊は頼朝挙兵時に敵対した。甥にまで頼朝を支援させる影響力を持ちながら、わが子が敵対することがあるだろうか。

比企尼同一人物説も根強いが、決め手に欠く。三善康信は比企能員の変(1203年)でも連座して失脚することもなく、比企一族と関係があるようにはみえない。

三善康信の伯母が寒河尼、比企尼、山内尼の3人とは別人とすれば、頼朝の乳母は4人だったことになる。

頼朝の乳母は3人説(寒河尼、比企尼、山内尼)、4人説(寒河尼、比企尼、山内尼、三善康信の伯母)、5人説(寒河尼、比企尼、山内尼、三善康信の伯母、摩々尼)があり、5人だった可能性もあるが、記述に矛盾のある摩々尼を除く4人説が有力。ただ、三善康信の伯母が比企尼と同一人物という可能性は残り、3人説は否定しきれない。もちろん、史料に名の出てこない乳母がいた可能性もあるが、それは検討することができない。


〈第2話〉寒河尼(1)隅田宿の参陣

源頼朝の乳母の一人、寒河尼(さんがわに、1138~1228年)。

頼朝の9歳上で、乳付きの乳母(乳を与える乳母)ではない。しつけや教養、貴人としてのたしなみを教える養育係、家庭教師だった。母親代わりというよりも姉のような存在だ。

2人の再会は、頼朝挙兵直後だった。

1180年(治承4年)10月2日、寒河尼は14歳の末っ子・七郎(結城朝光)を連れて隅田宿(東京都墨田区)の頼朝の陣を訪ね、七郎の奉公を申し出る。夫である当主・小山政光も嫡男・小山朝政も地元に不在だったのか、当主の妻が参陣したのだ。

1159年(平治元年)の平治の乱で別れたとすれば、21年ぶりの再会となる。頼朝は寒河尼の参陣を大いに喜び、昔話に花を咲かせた。さらに、連れてきた七郎を元服させて烏帽子(えぼし)を与えた。


◆頼朝、上総広常を叱責

このときの頼朝は味方集めに四苦八苦していた。

平家打倒の兵は挙げたが、石橋山の戦いで大敗し、命からがら敗走。安房、上総、下総と北上して武蔵に入った。9月19日に上総広常が2万騎の大軍で参陣し、ほかの様子見をしていた武家への影響も考えれば、ありがたい大軍の参陣だったが、頼朝は上総広常を叱責した。かなり待たされて行軍スケジュールにも影響したので、いらいらしていたのだ。また、ここで尻尾を振って喜んでは足元を見られるという計算があったのかもしれない。

上総広常は、頼朝がさしたる人物でもなければ、討ち取って平家に差し出すことも密かに考えたが、大軍の参陣に媚びずに遅れを咎めた態度に「武士の棟梁としてふさわしい」と頼朝の器量と認め、考えを改めている。

こうした状況の中、頼朝は少年1人を連れた母の参陣を喜んだのだ。本心であり、頼朝の演出。参集する武士の心情も考え、頼朝流の人心掌握術だった。

1187年(文治3年)12月、寒河尼は下野国寒河郡と網戸郷(栃木県小山市)の地頭に任じられた。いずれも夫・小山政光が治める小山郷の隣接地。

地頭は税の徴収権があり、「御恩と奉公」の関係でいえば、所領を与えられた御家人と同じだ。『吾妻鏡』は「女性ながら大功があった」と地頭補任の理由を示している。大功とは隅田宿参陣のことにほかならない。

頼朝が厳しい状況だったとき、小山氏がいち早く味方したことや、それを不在の当主に代わって妻が表明したことが大きく評価された。


◆実名は不明

寒河尼は91歳の長寿(年齢は数え年)。『吾妻鏡』の死亡記事は、頼朝、北条政子から特に大事にされていたと書いている。

実名は不明。「寒河尼」は「寒河の地の尼」という肩書呼称。地頭職を得た寒河郡が由来で、本来は「さむかわのあま」。「さんがわに」「さむかわに」と読んでもいいし、「寒川尼」と書いてもいい。もちろん、出家後の呼称で、夫・小山政光死後と考えるのが普通。または、小山政光が出家し、頭を剃って僧の姿になったときに同時に尼になったとも考えられる。『吾妻鏡』には「網戸尼」の呼称もある。これも地頭職を得た網戸郷にちなんでいる。


〈第3話〉寒河尼(2)父は八田宗綱か宇都宮朝綱か

寒河尼は、八田宗綱の娘で、結城朝光の母とされる。『吾妻鏡』の記述などに基づき、これが通説となっている。兄は宇都宮朝綱。小山政光の後妻であり、結城朝光の実母だが、小山朝政にとっては継母になる。

しかし、「小山朝政の母は宇都宮朝綱の娘」とする系図がある。宇都宮朝綱の妹ではなく娘、小山朝政の継母ではなく実母とする新説が注目されている。

史料の比較でいえば、系図類より『吾妻鏡』を重くみるのが当然だ。系図は後の時代になると、先祖の経歴を飾って家の自慢とし、出自を高貴な家、伝統ある名家に書き換えるといった改竄もあるからだ。

だが、小山氏と宇都宮氏の関係をみれば、小山朝政が小山氏を継いだのは寒河尼の実子だったからと解釈しも不自然ではない。1205年(元久2年)8月には、宇都宮頼綱追討命令を小山朝政が拒否し、頼綱をかばう事件がある。鎌倉時代前期の小山氏と宇都宮氏の関係は極めて緊密なのだ。

なお寒河尼を八田宗綱(1086~1162年)の娘とすれば、53歳での子で、宇都宮朝綱(1122~1204年)の娘とすれば、17歳での子となる。いずれも微妙だ。


◆寒河尼の怪しい伝承

寒河尼が近衛天皇に仕える女房(女官)だったというのは『老士雑談』にある話で、真実かどうか少し疑わしい。ただ、頼朝の乳母への抜擢理由としては合点がいく。

この『老士雑談』では、近衛天皇に仕える女房は宇都宮朝綱の娘で八田局という呼称。さらに、源義朝(頼朝の父)と密通して懐妊したと、際どいことが書かれている。そして、八田局が宇都宮に戻って生んだのが八田知家だというのだ。

八田知家の実父が源義朝だとすると、頼朝の異母兄となるが、もちろん珍説というしかない。八田局を寒河尼として八田知家の実母とするのは無理がある。年齢差が4歳しかない。八田局を別人としても、宇都宮朝綱の娘が八田知家の実母にはならない。宇都宮朝綱、八田知家の兄弟は20歳差なのだ。

八田知家(1142~1218年)は八田宗綱の四男で、宇都宮朝綱の弟。通説では寒河尼の弟になるが、寒河尼を宇都宮朝綱の娘とする新説では年下ながら叔父となる。


◆寒河尼の実家・宇都宮氏

宇都宮氏は〈宗円―八田宗綱―宇都宮朝綱〉と続く。

八田宗綱は宇都宮氏2代目だが、自身が宇都宮の苗字を名乗ったことはない。常陸・八田の地(茨城県筑西市)を拠点とし、宇都宮進出を果たしたのは3代目・宇都宮朝綱である。宇都宮氏のゆかりの地として栃木県益子町も重要だが、八田からの宇都宮進出ルート上にあり、宇都宮進出が簡単ではなかったことをうかがわせる。強力な競争相手がいたようだ。

宇都宮氏のルーツは摂関政治の全盛期を築いた藤原道長の兄・藤原道兼とされているが、初代・宗円は道長傍流とする説がある。

〈道長―庶子・頼宗―右大臣・俊家―三井寺(園城寺)禅師・宗円〉

この流れである。初代・宗円と2代目・八田宗綱は直接的な血縁関係はないことになる。

養子関係だったとする見方もある。そして、養子関係も恐らく後付け。宇都宮進出に伴い、前九年合戦(1051~62年)で朝敵を調伏した宗円の伝承にあやかり、権威付けのために初代・宗円と2代目・八田宗綱を無理やりつないだのではないか。

八田宗綱、宇都宮朝綱父子はもともと京武者。八田宗綱が常陸の有力者・多気致幹の婿となり、関東進出を果たす。宇都宮氏のスタートは坂東平氏名門・多気氏のバックアップが大きかった。

八田の地を継ぐのは宇都宮朝綱の弟で、「鎌倉殿の13人」の一人でもある八田知家だ。

八田知家はなかなかのくせ者で、曽我兄弟仇討ち事件(1193年)直後、多気義幹(多気致幹の孫)を罠に陥れて失脚させた。父の恩人の家系ながら常陸での競合関係にあった有力御家人を蹴落とすしたたかさをみせた。


〈第4話〉寒河尼(3)夫・小山政光

寒河尼の夫・小山政光は小山氏初代。秀郷流藤原氏のうち、武蔵・大田荘(埼玉県北東部)を拠点とした大田氏出身で、大田行光の三男だ。

大田行光の子のうち、大田行広(嫡男)や大河戸行方(大河戸氏の祖)、下河辺行義(下河辺氏の祖)は、名に大田氏の通字「行」を持つ。小山政光は「行」の字がなく、庶子だったようだ。

なお、小山政光の父を大田行光ではなく大田行政、祖父を大田行尊(行高)とする系図もある。この場合、大田行政と大田行光は兄弟。大田行広、大河戸行方が大田行光の子で、小山政光の従兄弟となる。小山政光はもともと本家だった大田氏をしのぐ関東の有力武家に成長した。

小山政光と寒河尼の婚姻は、小山朝政が寒河尼の実子とする新説から推測すれば、1155年(久寿2年)以前となり、このとき、小山氏は源義朝に従っていたことになり、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)も源義朝の家臣として戦ったはずだ。源義朝は1153年(仁平3年)に下野守に任じられているので、このころ関係を深めたとも考えられる。

小山政光の後妻とする通説からは結婚時期は推定しにくいが、平治の乱以降、源氏の動向と関係なく、小山氏と宇都宮氏の連携強化を独自に図った可能性も残る。


◆頼朝の面前で大言壮語

1189年(文治5年)7月、奥州藤原氏制圧のため、鎌倉を出陣した頼朝一行は宇都宮に立ち寄る。頼朝は「武芸の開祖」として藤原秀郷を尊敬しており、藤原秀郷が平将門討伐時に祈願した前例にならって宇都宮社(宇都宮二荒山神社)に戦勝を祈願した。

宇都宮の領主は宇都宮朝綱がだが、ここでの接待役は小山政光だった。しかも入道姿である。小山政光は、頼朝に伺候する若武者の名を尋ねた。

「この者は無双の勇士、熊谷小次郎直家だ」

頼朝が答えると、結城朝光が聞いた。

「なぜ『無双』の称号を得たのでしょうか」

「平家追討の際、一ノ谷をはじめとする戦場で父(熊谷直実)と並んで、たびたび命を捨てて戦ったからだ」

 熊谷直実は一ノ谷の戦い(1184年)で平家の公達・平敦盛を討ち取ったことで知られる。熊谷直実、直家父子は敵陣一番乗りを目指し、直家は負傷。熊谷父子は常に先陣を争う勇猛な武士である。

だが、頼朝の説明に対して小山政光は大笑い。

「主君のために命を捨てて戦うのは直家に限ったことではないでしょう。ただ、仕える家来もいないので自ら勲功を挙げ、無双の称号を得たのでしょう。政光は家臣を派遣して忠義を尽くすのみです」

続けて子息の小山朝政、長沼宗政、結城朝光と猶子(養子)の宇都宮頼綱に言い放つ。

「そういうこことなら、今回は自ら戦って無双の称号を賜るようにしなさい」

小山氏は3兄弟それぞれが熊谷直家クラスの武士を家臣として抱える強力武士団。合戦の勝敗を決めるは数の力と言わんばかりで、それを誇る小山政光の態度は謙虚さのかけらもなく、随分感じが悪い。だが、率直でもあり、この時代の武士の価値観とも合致しているのだろう。実力差は発言力に比例するのだ。

『吾妻鏡』では頼朝も上機嫌だったとされているが、本心はどうだっただろうか。


◆実像不明の小山政光

源頼朝の面前で大言壮語した小山政光だが、この場面以外、史料に登場しない。系図に記載され、小山氏初代という位置づけも明確で、『吾妻鏡』には寒河尼や小山3兄弟との関係で名が出てくるが、小山政光自身の言動はこの発言以外は何も分からない。

野木宮合戦(1181年。1183年説も有力)のときは在京していて、指揮を取ったのは嫡男・小山朝政だった。源平合戦(1180~85年)や奥州合戦(1189年)でも小山3兄弟が活躍するのに対し、父・小山政光の出陣の記録は全くない。

『吾妻鏡』には、野木宮合戦で活躍した武将として、小山朝政の家臣の水代六次、池二郎、結城朝光の家臣の保志秦三郎の名が出てくる。一方、奥州合戦では小山政光の家臣として永代六次、池次郎、保志黒次郎の名が出てくる。それぞれ同一人物か一族であろう。

小山3兄弟の家臣でありながら小山政光の家臣でもあるという二重構造になっていたのではないか。3兄弟がそれぞれ御家人としては独立していながらも、3兄弟の兵が小山一族の大軍団を構成していたのではないか。そこに源平合戦などで活躍した小山一族の強さの秘密があると思うのだ。


〈第5話〉比企尼(1)流人・頼朝への仕送り

源頼朝の乳母・比企尼は、流人として伊豆で忍従の時を過ごした頼朝の生活を20年間支えた。

夫は比企遠宗。『吾妻鏡』では比企掃部允(かもんのじょう)。掃部允は役職で、実名は不明だが、系図類の比企遠宗が該当するようだ。

比企氏は秀郷流藤原氏の一門・波多野氏から分かれたとする系図がある。比企遠宗、比企尼夫妻は京で源義朝(頼朝の父)に仕えていたが、平治の乱(1159年)以降は武蔵・比企郡(埼玉県東松山市など)に移住したようで、この地から米などを伊豆に送り、頼朝の生活を支えた。


◆3人の婿

比企尼の頼朝支援は仕送りだけではない。

長女、丹後内侍は、伊豆で頼朝の側近として仕えた安達盛長の妻。婿夫婦が流刑地で生活をともにする、これ以上ない支援態勢だった。流刑地での頼朝は牢獄につながれていたわけではなく、行動も多少は自由で、貧乏とはいえ、貴人としての体面は保つだけの待遇は受けていた。『曾我物語』によると、「そばを離れない2人の武士」として安達盛長と小野成綱を従え、さらに舎人(とねり、使い走りのような従者)の鬼武がいた。『源平盛衰記』でも安達盛長と小野成綱、『源平闘諍録』では安達盛長と佐々木定綱が流人時代の頼朝の側近として登場する。いずれにしても比企尼の婿・安達盛長は欠かせない側近だった。

比企尼次女は河越重頼に嫁いだ河越尼。河越氏は、畠山重忠と同族の桓武平氏をルーツとする秩父氏一門。河越重頼の娘・郷御前は源義経の正妻で、ここでも比企尼人脈と頼朝の密接な関係がうかがえる。

比企尼三女は伊東祐清の妻。伊東氏は伊豆の有力武家で、祐清の父・伊東祐親は流人・頼朝の監視役である。監視役の伊東氏を取り込む比企尼の戦略があたったのか、伊東祐親の娘・八重姫は頼朝と恋仲になり、千鶴丸を産む。大番役(京での警備を担う当番制の任務)から帰ってきた祐親は平家の目をはばかって3歳の千鶴丸を殺害。さらに頼朝奇襲を企てる。伊東祐清は、これをいち早く頼朝に知らせ、頼朝は難を逃れる。

比企尼の狙いがズバリ的中。婿・伊東祐清のみならず、比企尼も頼朝にとって命の恩人である。


◆比企尼の夫・比企遠宗

1180年(治承4年)、「北条時政と比企掃部允が頼朝を立てて反逆しようとしている」という手紙を示す平家有力家臣・藤原忠清に対し、相模の武士・大庭景親は「北条の意図は知れませんが、比企掃部允は既に死んでいます」と応じた。比企遠宗(比企掃部允)は頼朝寄りと周囲からみられていたようだ。また、情報が錯綜しているが、少し前まで存命だったため出てくる情報でもある。


◆実子・比企朝宗

比企遠宗、比企尼の実子として比企朝宗がいるが、比企尼の甥・比企能員が養子となって比企氏を継ぐ。比企能員の比企氏継承が比企朝宗死後ならば分かりやすいが、比企尼が比企能員を養子とし、頼朝の承認を得たのは1182年(寿永元年)10月で、朝宗は存命していた。

比企朝宗は、1184年(元暦元年)8月には平家追討に出陣する軍勢に義兄弟・比企能員らとともに名を連ねているし、1194年(建久5年)には越前・志比荘(福井県永平寺町など)の横領を訴えられている。

比企朝宗には跡継ぎの男子がいなかった。後の家督争いを避けるため、あえて養子を跡継ぎにした比企尼の深慮遠謀と考えられるのだが……。


◆北条義時の正妻・姫の前

比企尼の孫・姫の前は北条義時の正室となる。

姫の前は比企朝宗の娘。姫の前は、頼朝に高く評価された幕府女官でもあった。有能で美人。北条義時が1年にわたってラブレターを送り続けたが、一向に進展しない。見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁しない」と起請文を書かせて間を取り持った。姫の前は義時の次男・朝時、三男・重時を産んだ。比企能員の変での動向は不明だが、北条氏と比企氏は敵対。「絶対に離縁しない」と誓った夫婦だったが、結局破綻したのだ。

この後、北条義時の正室は伊賀朝光の娘・伊賀の方になる。伊賀氏も秀郷流藤原氏である。頼朝だけでなく、北条義時も秀郷流藤原氏と深い関係を持ったのだ。


〈第6話〉比企尼(2)養子・比企能員

流人時代の源頼朝を支えた比企尼の功績が大きく評価され、鎌倉時代初期、比企氏は頼朝側近として大きな力を得ていた。

比企尼の養子・比企能員(ひきよしかず、?~1203年)は13人の合議制のメンバー、「鎌倉殿の13人」の一人である。2代将軍・源頼家の養育者でもあり、比企能員の身内が頼家の乳母にもなっている。比企能員の妻や比企尼の次女、三女が頼家の乳母だった。さらに能員の娘・若狭局が頼家の側室となり、頼家の長男・一幡を産む。

さらに比企能員の子息はそろって源頼家の側近。比企宗員(三郎)、比企時員(弥四郎)である。13人の合議制のメンバーが定まった直後、頼家は近習5人に狼藉不問や頼家の面談取次の特権を告知した。大物御家人でも、5人の近習を通さないと頼家に面会できないルールである。

5人と書きながら、『吾妻鏡』が名を挙げたのは、比企兄弟に小笠原長経(弥太郎)、中野能成(五郎)を加えた4人で、別の場面では比企時員、小笠原長経、中野能成、和田朝盛(和田義盛の孫)、細野四郎(実名不詳)の5人となっている。ともかく、頼朝死後、「鎌倉殿」となった源頼家は、養育係兼重要閣僚(13人の合議制メンバー)の比企能員をはじめ、乳母、側室、側近と周囲を完全に比企人脈で固めた。


◆北条義時の正妻・姫の前

比企能員が権勢を振るった期間は短い。

源頼家が父・頼朝の死で「鎌倉殿」の地位に就いたのは1199年(建久10年)1月だが、1203年(建仁3年)には比企能員の変が起き、頼家の地位も吹き飛んだ。

源頼家を擁する比企能員と、頼家の生母・北条政子の実家・北条氏との暗闘である。

先手を打ったのは比企能員。5月19日、頼朝の異母弟で北条時政の婿となっていた僧・全成を逮捕。さらに翌日には全成の妻・阿波局尋問を求めるが、これは姉・北条政子がきっぱりとはねつけた。全成の身柄は宇都宮一族の塩谷朝業(宇都宮朝綱の孫)が預かり、全成を殺害したのも宇都宮氏親族で「13人の合議制」のメンバーでもある八田知家(宇都宮朝綱の弟)だった。また、7月16日には全成の三男・頼全も捜し出されて京・東山の延年寺(京都府京都市東山区)で殺害された。

だが、この後、北条氏が反撃する。


◆比企能員の変で一家全滅

源頼家が重い病気に伏し、危篤状態に陥ったことが転機となった。

8月27日、北条時政は、関東28ヵ国の地頭職を源頼家の嫡男・一幡に、関西38ヵ国の地頭職を頼家の弟・源実朝に相続させることを決める。比企能員は頼家に北条時政に謀反の意思ありと告げ、頼家は時政追討を命じる。だが、この密議を障子の陰で北条政子が聞いていた。

これを知った北条時政は9月2日、仏事の相談とだまして比企能員を自宅に呼び出し、仁田忠常、天野遠景によって暗殺させた。

比企氏側にも北条時政の誘いに警戒する声はあったが、比企能員は警護のため武装兵を連れていくのはかえって怪しまれると、あえて平服で北条時政邸に向かったのが裏目に出てしまった。

比企一族は館に立て籠もったが、北条政子の命令で有力御家人の多くが北条氏の味方となって比企一族を攻めた。平賀朝雅、小山朝政、長沼宗政、結城朝光、畠山重忠、三浦義村、和田義盛、土肥維平(土肥遠平の長男)、尾藤知景、工藤行光、加藤景廉、遠山景朝(加藤景廉の長男)、仁田忠常ら錚々たる顔ぶれが北条氏に味方した。特に尾藤知景、加藤景廉、遠山景朝、和田景長(和田氏の一族)といった面々は負傷するほどの奮闘ぶりだった。

比企能員の子である比企時員(四郎)や比企三郎、五郎(いずれも実名不詳)は奮戦して防戦に努め、大きな兵力差に関わらず激戦となった。そんな中、比企能員の嫡男・余一兵衛尉(実名不詳)は女装して戦場を抜け出すが、逃走中、加藤景廉に討ち取られた。

また、小笠原長経、中野能成、細野兵衛尉が比企能員与党として拘禁された。細野兵衛尉は細野四郎であろう。源頼家の近習「5人組」の連中である。


◆将軍・頼家追放、北条独裁への一歩

比企能員に謀反計画があったというのも、北条側の主張に過ぎず、北条氏と比企氏が権勢を競った挙句、北条時政の仕掛けたクーデターが比企能員の変だったといえる。北条時政は比企能員をはじめ、将軍・源頼家に近い側近、有力者をまとめて粛清したのだ。

源頼家の容態が回復したときには既に比企一族は全滅していた。頼家は和田義盛と仁田忠常に北条時政追討を命じたが、和田義盛は北条側にこれを伝えた。

和田義盛も後には北条氏と対立するが、このときは、北条氏対比企氏の対決は北条氏に軍配が上がり、比企氏に近すぎた源頼家は将軍といえども、今は敗者でしかないと感じ取っていたのだろう。

一方、仁田忠常は和田義盛ほど上手に立ち回れなかったのか、北条時政邸に呼び出されている間に弟たちが北条義時邸を襲う暴挙に出た。源頼家との密談がばれたと早合点したのだ。仁田忠常は加藤景廉に首を取られた。ともに頼朝挙兵時を支えた古参の武将。仁田忠常は比企能員の変のとばっちりで無残な最期となった。

頼りにしていた将兵を失った源頼家は出家に追い込まれ、1年後に暗殺される。


〈第7話〉山内尼(1)頼朝に愛息の命乞い

山内尼は山内首藤俊通の妻で、子に山内首藤俊綱、俊秀、俊経がいる。

山内首藤氏は秀郷流藤原氏の一門で、源氏嫡流との主従関係も代々続いている。

だが、山内首藤俊経は1180年(治承4年)8月、源頼朝が挙兵したとき、敵対して大庭景親の軍に加わり、頼朝を攻めた。

しかも、石橋山の戦いで山内首藤経俊の放った矢が頼朝の鎧の袖に命中した。

その後、関東には頼朝に味方する勢力が増え、大庭軍解散後、山内首藤経俊は頼朝に降伏する。本拠地・山内荘(神奈川県鎌倉市北部、横浜市戸塚区)は没収。身柄は土肥実平に預けられた。

斬首も決まっていた。

山内尼は泣きながら参上。源氏と山内首藤氏の縁の深さを切々と訴えた。夫・山内首藤俊通の曽祖父となる首藤資通が源義家に仕え、源為義(頼朝の祖父)の後見役になってきたことから説き始める。

「代々忠を尽くしてきたことは数え切れないほどです。特に夫・俊通は平治の乱に臨み、亡骸を六条河原にさらしました。経俊が大庭景親に味方した罪は大きいのですが、これは平家の耳に入ることをはばかったためです。石橋に軍陣を張った者(石橋山の戦いで頼朝に敵対した者)も多くが許されています。経俊もまた、どうして先祖の功が考慮されないことがありましょうか」

頼朝は、山内尼の前に鎧を置いた。鎧の袖に矢が立ったままで、その矢に「滝口三郎藤原経俊」の名がしっかり書かれている。山内首藤氏は秀郷流藤原氏。本姓(元々の氏族名)は藤原だから「藤原経俊」と記名しているのだ。

矢竹の先端に鏃(やじり)を糸などで巻いて固定した沓巻(くつまき)のあたりに名を書く武士はけっこういて、例えば『平家物語』では、和田義盛も漆で名を書いた矢を飛ばしている。武勇を誇り、武勲の証拠となることを考慮しての記名だが、和田義盛は平家の兵に射返されて恥をかき、山内首藤経俊の場合は頼朝の命を狙った証拠になった。

山内尼は涙をぬぐって退出するしかない。

山内首藤経俊はこの後、御家人として活躍する。結局、許された。頼朝としては、許すとしても言わずにはいられなかったのだ。山内尼は生きた心地がしなかったに違いない。

山内首藤経俊はこのとき44歳だが、いくつになっても母にとってはかわいいわが子。母の泣訴でようやく命拾いをした。


〈第8話〉山内尼(2)エピソード満載・山内首藤経俊

山内尼の愛息・山内首藤経俊(やまのうちすどう・つねとし、1137~1225年)はエピソードの多い武将でもある。

まず、源頼朝が平家追討の兵を挙げたとき、関東の武将に加勢を求めたが、山内首藤経俊の態度は頼朝の期待を打ち砕くものだった。『吾妻鏡』によると、使者となった安達盛長の報告は次の通り。

「波多野右馬允義常と山内首藤滝口三郎経俊は呼びかけに応じないばかりか数々の悪口さえ言っている」

名にいろいろ付いているが、滝口は宮中警護の「滝口の武士」のことで、官職に由来する呼称。同様に、波多野義常の右馬允は右馬寮の允(長官、次官に次ぐ3等官)のことだ。

 『源平盛衰記』には悪口の中身も明らかにされている。

加勢の要請に波多野右馬允は返事をせず、山内首藤俊綱の子・滝口三郎利氏、四郎利宗の兄弟は双六を打ちながら使者には見向きもせず、兄が弟に向かって言った。

「これ、聞いたか。この上もなく困窮すると、あらぬ心もおつきになる。頼朝殿の身の丈で平家の世を取ろうとするのは富士の高嶺と丈比べをし、ネコの額の物をネズミが狙うようなものだ。ああ、恐ろしい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

『源平盛衰記』では兄・俊綱の子とされ、名も利氏と変わっているが、このとき山内首藤の当主で、滝口三郎を称する者は山内首藤経俊であり、悪口の主は山内首藤経俊である。富士山との背比べに例えて、頼朝では平家に全く相手にならないと嘲笑。旧主君を完全に見限っていた。このときの頼朝の状況では、こう判断しても仕方ないかもしれないが……。


◆力持ちで調子に乗るタイプ

山内首藤経俊は『曽我物語』にも登場する。

頼朝の流人時代、伊豆・奥野で大勢の武士が狩りをして遊び、その帰り道に曽我兄弟の実父・河津祐通暗殺事件が起きる。河津祐通(河津三郎)は伊東祐親の長男で、名は祐通のほか、祐重、祐泰など諸説ある。この事件は曽我兄弟の仇討ちのきっかけとなる。

山内首藤経俊に関係があるのは事件の前。武士たちが紅葉の下、野外宴会を開く場面だ。「山内がいないが、どうしたのだ」と声が上がっていたところに、矢で仕留めたばかりの熊をひきずって登場。みんなが感心するので山内首藤経俊は「もう一つ何かやって褒められよう」と調子に乗る。20~30人がかりでないと動かせそうにもない岩が目に留まった。

「ここに大きな石があるのは目障りです。片付けましょう」

山内首藤経俊は右肩で岩を支え、足に力を入れて踏ん張り、声を出して岩を起こして谷底に落とす。一同から歓声が上がる。場は盛り上がり、みんなで相撲を取ろうという話になった。これだけの怪力を自慢する山内首藤経俊が最強なのかといえば、そうではなくて、合沢3兄弟に勝ったが、伊豆の竹沢源太に負け、その後は次々と勝者が入れ替わる。最後に32番勝ち抜いて最強と思われた俣野景久(大庭景親の弟)を河津祐通が倒した。山内首藤経俊の力自慢は結局、河津祐通の引き立て役だったのだが、経俊自身も相当な怪力だったことには違いない。


◆アップダウン多い生涯

山内首藤経俊は頼朝に降伏、死罪を免れ、御家人として頼朝に仕え、活躍もするし、しくじりもあった。

1184年(元暦元年)には伊勢で志田義広(頼朝の叔父。木曽義仲に味方した)を討ち果たした。伊賀での平氏残党の反乱鎮圧にも出兵。伊賀、伊勢の守護も務めた。

1204年(元久元年)の三日平氏の乱(平氏残党の反乱)では兵の用意が足りず、山内首藤経俊は敗走。その後、平賀朝雅と合流し、反乱を鎮圧したが、伊勢の守護は解任され、平賀朝雅が任命された。

頼朝の厚遇を受ける場面もあれば、降格も経験。アップダウンのある人生を送った。


第2部へつづく。


【次回のコラムも乞うご期待!】


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