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【番外編2】出家した北面武士『西行』が頼朝に伝えた秀郷流弓術



水野拓昌先生コラム:番外編

ライター:『鎌倉殿と不都合な御家人たち 「鎌倉殿」の周りに集まった面々は、トラブルメーカーばかり?』(まんがびと)『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌


第2部 鎌倉殿と秀郷流武芸

〈第9話〉西行・秀郷流の京武者・佐藤義清

武家政権・鎌倉幕府を樹立した「鎌倉殿」源頼朝は秀郷流武芸を大切にし、武士をまとめる精神的な要ともしていた。藤原秀郷を武芸の開祖として崇拝していたのだ。

それを象徴するのが1187年(文治3年)から始まった鶴岡八幡宮での流鏑馬である。これは1年前、頼朝が老僧・西行(さいぎょう)と語り合った秀郷流武芸が大きく関わっている。

頼朝と西行の会談を紹介する前に、まずは頼朝に秀郷流武芸を語った西行とは何者かをみていきたい。


◆秀郷流名門・佐藤氏

西行の俗名(出家前の名)は佐藤義清(のりきよ)。「憲清」と書く史料もある。

生没年は1118~1190年。平清盛と同年生まれで、享年73。比較的長寿だった。

佐藤氏は藤原秀郷の子孫・秀郷流藤原氏の一門で、京で活動する京武者の家系。紀伊・田仲荘(和歌山県紀の川市)を摂関家(藤原氏本流)に寄進し、管理。事実上の所領で経済力も大きく、裕福な武家だった。

佐藤氏を秀郷流の嫡流(本流)とする見方も根強い。

系図では、こうなっている。

〈秀郷ー千常ー文脩ー文行ー公行ー公光ー公清ー季清ー康清ー義清〉

曽祖父・公清、祖父・季清、父・康清と代々・左衛門尉(さえもんのじょう)の官位を得た。衛門府(えもんふ)は内裏(皇居)を警護する衛府(えふ)の一つ。衛門府、近衛府(このえふ)、兵衛府(ひょうえふ)にそれぞれ左右あり、六衛府という。天皇の身辺警護、宮廷の警護、夜間警備などを担当する宮廷の軍事組織、天皇の親衛隊組織だ。尉は、長官・督(かみ)、次官・佐(すけ)に次ぐ3等官。

佐藤義清は左衛門尉であり、北面の武士として鳥羽上皇にも仕えていた。平清盛や文覚(遠藤盛遠)が鳥羽院北面武士の同僚だったとみられる。また、祖父の代から藤原北家一門の徳大寺家に仕えていた。朝廷や貴族との交流もあり、和歌の実力も若いころから認められていた。


◆佐藤義清の出家

佐藤義清は1140年(保延6年)、23歳で出家。西行法師と呼ばれる。

出家の動機については、親友の急死説(無常観説)、失恋説がある。

親友の急死説は『西行物語』で語られている。

同族で同僚の佐藤憲康とともに検非違使に任官されるという朝、憲康の突然死に衝撃を受けて無常観を募らせたというもの。前日、翌朝一緒に参上しようと言って別れた憲康を誘うため彼の屋敷に行ってみると、人だかりがしていて、憲康の死を聞かされる。出家を家族に告げる際、かわいくまとわりつく4歳の愛娘を「これこそ俗世への未練」と縁台から蹴落とす場面が知られている。

失恋説は『源平盛衰記』によるもの。

佐藤義清は「名を申し上げるのも恐れ多い高い身分の女官」と恋愛するが、その女官から「阿漕の浦」と告げられる。阿漕浦は、伊勢神宮に供える魚を捕るための禁漁区である。「一度は密漁できても何度もやれば発覚する」、つまり、「一度の密会ならば発覚しない、もう会わない方がよい」という意味が含まれていた。再会を拒絶され、たった一度の逢瀬を思い出にして出家したというのだ。

いずれもドラマチックだが、『西行物語』も『源平盛衰記』もフィクションが交じった物語である。西行の出家に関していえば、全部フィクションかもしれない。

西行(佐藤義清)本人が残しているのは和歌だけで、出家前後の和歌もある。「さあ出家するぞ」とばかりに前向きにとらえている和歌もあり、東山や嵯峨の草庵を訪ねて下見を重ねていた形跡もある。衝動的な出家ではなさそうなのだ。


〈第10話〉西行が伝えた秀郷流武芸

西行と源頼朝の出会いは1186年(文治2年)8月15日である。

この日、鶴岡八幡宮をうろうろしている老僧がいたので、参詣に来ていた頼朝は梶原景季(梶原景時の嫡男)に確認させると、西行、すなわち佐藤義清だった。

頼朝は西行を御所に招き、歓談した。頼朝は歌道と騎馬での弓矢の扱いを聞いた。西行はひとまず、すっとぼけた。

「出家したときに秀郷以来9代相続してきた兵法は燃やしてしまいましたし、人殺しの罪の元になるので全て忘れました。和歌については花鳥風月に感動したとき、三十一文字(みそひともじ)にまとめるだけのことで、特に奥義というようなものもありません」

ところが、頼朝と西行は夜通し語り明かし、西行は弓馬についても詳しく語った。実は何も忘れていなかったのだ。

いったい何を語り合ったのか。会談内容は半世紀後に明らかになる。


◆51年後に明かされた西行の武芸論

1237年(嘉禎3年)7月19日、11歳の北条時頼(5代目執権)が流鏑馬の練習をしたとき、祖父・北条泰時(北条義時の長男。3代目執権)が弓の名人である海野幸氏に時頼の指導を頼んだ。

海野幸氏は時頼の弓を褒めるが、泰時に重ねて指導を求められると、51年前の頼朝と西行の武芸談議を披露した。

頼朝の前で「弓を一文字(水平?)に持つ」ことに皆が同意したとき、西行が「一文字ではなく、拳より押し立てて引くように持つ」と説き、「確かにその方が速く射ることができる」とほかの者も納得したというのだ。

海野幸氏の話を聞いて、三浦義村は「確かに聞いたことがあるよ。興味深い話だ」と感心しており、頼朝・西行会談のエッセンスは武士の間に漏れ伝わっていたのかもしれない。

51年前の頼朝・西行会談に同席していたのは、下河辺行平、工藤景光、和田義盛、望月重隆、藤沢清親、金刺盛澄、愛甲季隆といった面々だという。ただし、捕虜となっていた金刺盛澄は1187年(文治3年)の流鏑馬で妙技を披露して許されるはずなので、ここでの登場は不自然なのだが……。

頼朝と西行の会談から1年後の1187年8月15日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬が披露され、その後も毎年同じ時期に流鏑馬が開催されている。1190年以降、放生会の儀式と流鏑馬を分けて8月16日となった。かなり盛大で、鎌倉幕府の重要行事だったようだ。

この経緯から、西行から聞いた秀郷流武芸が鎌倉の流鏑馬のルールとなっていたと想像できる。頼朝が秀郷流武芸を重んじていたことがうかがわれるエピソードだ。


〈第11話〉秀郷流武芸を伝えた武士たち

1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮の放生会に伴う流鏑馬で、妙技を披露したのが金刺盛澄(諏訪盛澄)である。

『吾妻鏡』では、金刺盛澄は京では弓術の大会にもたびたび出場した名人で、秀郷流武芸の秘伝を会得している者と説明されている。だが、金刺盛澄は秀郷の子孫ではない。諏訪神官の武士である。平家の家臣だったので囚人として扱われていた。だが、死刑にすると、流鏑馬の一流派が失われるので源頼朝はためらっていたのだ。

そして、この日、突然呼び出されて流鏑馬を披露することになった。予定された流鏑馬は既に5人が出場して、それぞれ的中させ、無事終了している。3番射手に下河辺行平、5番射手に三浦義村と頼朝気に入りの若手武将が出場した中で、4番射手は小山千法師丸だった。小山朝政の嫡男・小山朝長が生まれる前年であり、歴史に名の残っていない朝政の庶子であろうか。


◆超絶技巧を披露した金刺盛澄

5人の射手が無事、流鏑馬を披露した後に呼び出された金刺盛澄には、ことさら高いハードルが設定された。

まず、最も扱いにくい馬をあてがわれる。厩舎管理人がそっと「この馬は的の前で右に動く癖がある」と伝えたので、金刺盛澄は的を外すことはなかった。

次に竹串に刺した土器の皿が的台に3本立てられた。小さな的だったが、金刺盛澄は全て射落とした。さらに頼朝は「残った3本の串を射よ」と命じた。金刺盛澄は心の中で諏訪大明神に祈り、元の場所に戻って馬を走らせる。竹串3本を全て射切った。

見事な武芸にみな感心し、頼朝も喜び、すぐに金刺盛澄の釈放を決めた。

金刺盛澄とすれば、囚人の立場だったので死も覚悟して臨んだ場だった。難易度の高い課題を突き付けられたが、見事にクリア。秀郷流武芸の神髄を披露した。


◆子孫は「逃げ若」忠臣・諏訪氏

金刺盛澄は諏訪大社下社の神官武将であり、諏訪盛澄とも書かれているし、諏訪大社上社の神官武将・諏訪氏も金刺氏の流れというのが通説のようだ。

諏訪氏は由緒ある神官兼武家だし、鎌倉幕府の御家人であるが、北条氏との関係も密接で、主従関係を結び、北条得宗家の御内人となる。

鎌倉幕府滅亡前後にも諏訪氏の武士が奮闘している。人気漫画『逃げ上手の若君』の主人公で一躍有名になった北条時行を信濃・諏訪地方に逃した諏訪盛高や、北条時行の中先代の乱に従った諏訪頼重らが活躍した。

一方、金刺盛澄の弟・手塚光盛は木曽義仲に従った有力武将。木曽義仲の恩人で平家方の老将に転じていた斎藤実盛を討ち取った。また、巴御前に並ぶ木曽義仲の愛人兼女武将に山吹御前がおり、彼女は金刺盛澄の娘という説がある。


〈第12話〉小山朝政邸の流鏑馬会議

1194年(建久5年)10月9日、源頼朝は小山朝政邸を訪ね、武芸達者な武士を集めた。

先例や各家に語り継がれている古い言い伝えを調べて流鏑馬の的の射る方法などを検討したが、各人からそれぞれ違った方法が説明されたようだ。武士たちが自慢話に花咲かせるとか、宴会で武芸論が盛り上がったとか、そういうレベルではなく、記録係として幕府文官・中原仲業も参加した本格的なプロジェクトだった。

余談だが、中原仲業は1199年(正治元年)10月、結城朝光が梶原景時の讒言でピンチになったとき、梶原景時を弾劾する署名を集める文書を作成することになる。


◆小山一族重視の象徴

もともと太田氏から独立した武家に過ぎなかった小山氏だが、初代・小山政光が下野南部で勢力拡大に努め、嫡男・小山朝政を筆頭に長沼宗政、結城朝光の兄弟が源平合戦、奥州合戦で活躍し、所領も拡大したこともあって小山3兄弟はいずれも鎌倉幕府の有力御家人の地位を得た。

小山氏は東国での秀郷流本流を自任するようになり、頼朝も小山一族を重視した。小山朝政の邸宅で重要ミーティングを開いたことにも、頼朝の小山一族重視の姿勢を象徴している。

そもそも朝政邸ミーティングには明確な目的があった。

翌年の1195年(建久6年)に頼朝は御家人を引き連れて上京するが、その際、住吉大社(大阪府大阪市住吉区)を参詣し、願掛けのために流鏑馬を披露する予定があった。東国の武士の技を披露するにあたって、関西の人々に笑われないようにしなければならないし、若い武士にも勉強させたいという頼朝の思いがあったのだ。

若手への見本ということなのだろうか。このミーティングで流鏑馬対決があった。

下河辺行平 ー 小山朝政

武田有義  ー 結城朝光

小笠原長清 ー 和田義盛

榛谷重朝  ー 工藤行光

金刺盛澄  ー 海野幸氏

氏家公頼  ー 小鹿島公業

曽我祐信  ー 藤沢清親

望月重澄  ー 愛甲季隆

宇佐美祐成 ー 那須光資

頼朝と西行の会談にも参加した御家人も何人かいて、この面々が当時、弓の名手として認められていたようだ。小山朝政、結城朝光の兄弟、従兄弟の下河辺行平は頼朝の信頼も厚い。秀郷流藤原氏ばかりでなく、源氏、平氏をルーツとする武士もいる。また、坂東武士ばかりではなく、木曽義仲の旧臣ら信濃の武士も多い。


◆秀郷流武芸を重視する頼朝

このほかにも、頼朝が秀郷流武芸を重視する場面は多い。

1189(文治5年)の奥州合戦では、出発前の準備で、小山朝政に旗を新調する際の絹を献上させている。その理由を『吾妻鏡』には、藤原秀郷が朝敵・平将門を討った吉例にならうものとわざわざ書かれている。

また、鎧は下河辺行平に新調させた。兜の後ろに付けられた笠識(かさじるし。敵味方を見分ける小旗)について、頼朝が「これは袖に付けるものではないか」と指摘すると、下河辺行平は「これは藤原秀郷以来の吉例。先陣を駆けるので、敵は名乗りの声で誰かを知り、味方は後ろからこの笠識を見て、誰が戦陣かを知ります」と答え、頼朝を感心させた。

頼朝が武芸の開祖として、また朝敵を討った武士の象徴的な存在として、藤原秀郷を強く意識していたことがうかがわれる。


【次回のコラムも乞うご期待!】


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