宇都宮 頼綱 (蓮生)
No.31
【宇都宮頼綱】
うつのみ やよりつな
Utsunomiya Yoritsuna
塩谷氏の名跡をついだ弟の塩谷朝業と共に宇都宮歌壇を起こす。藤原定家の「百人一首」誕生のきっかけを生んだ。
【別称・通称】彌三郎/蓮生(出家名・れんしょう・れんじょう)
【官位】従五位下/検非違使
【生年】承安2年(1172年)
【没年】正元元年(1259年)
【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期
【氏族・血族】藤原氏/下野宇都宮氏
【在所・所領】下野国宇都宮
【墓所】京都市三鈷寺
【由縁の場所】栃木県宇都宮市/京都市小倉山
【家系・系譜】
父:宇都宮業綱
養父:小山政光
母:平長盛娘
妻:稲毛重成娘(先妻)、北条時政娘、梶原景時娘
子:宇都宮時綱、秋元泰成、横田頼業、宇都宮泰綱 他
兄弟:業綱、永綱、塩谷朝業
義兄弟:小山朝政、長沼宗政、結城朝光、吉見朝信
■宇都宮氏第五代
宇都宮頼綱は、宇都宮氏第五代当主として生まれた。
文治5年1189年、奥州合戦に際しては紀清両党(芳賀氏、益子氏)を従えて従軍し功績を立てる。
建久5年1194年、北条義時の嫡男金剛(後の泰時)の元服の儀に参列する。
名実ともに宇都宮家の惣領の立場で鎌倉幕府に仕えていたが、時代的なさまざまな謀略、謀反などにより幕府における立場が危うくなり、法然の弟子証空に師事し28歳で出家し蓮生を名乗る。
若くして出家した頼綱だが、有力な御家人として鎌倉幕府に仕え、子の第六代当主・泰綱や孫の第七代景綱が、幕府の重職である評定衆や引付衆を務るなど、鎌倉時代における宇都宮氏の政治的基盤を築いた人物といえる。
■ 宇都宮頼綱(蓮生)と藤原定家と和歌
頼綱は、祖母も母も都育ちの人であるので、幼少のころから和歌に親しんでいたと思われ、歌人としても優れていた。
同じ藤原の系統である藤原定家と親交を深め、娘を定家の嫡男である為家に嫁がせている。
弟・宇都宮(塩谷)朝業と共に宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇と同等の地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇といわれるほどの基礎を築いた。
寛喜元年1229年、藤原定家と藤原家隆の2人の歌人が、宇都宮大明神(二荒山神社)で神宮寺を作ったときに襖を飾る障子歌として、大和国の名所歌十首を色紙に書いて贈ったといわれる。
嘉禎元年1235年、頼綱は、嵯峨に建てた小倉山荘に飾る歌色紙を依頼、藤原定家はそれに応えて選定した和歌98首を障子歌色紙に書いて贈り、頼綱は小倉山荘の襖絵としてそれらの歌色紙を飾ったという。この色紙歌は『百人秀歌』と考えられ、後に後鳥羽院や順徳院の歌などを加えて整理されて「小倉山荘色紙和歌」と呼ばれ、「小倉百人一首」の原形になったといわれる。
また、蓮生は藤原定家との親交のように都の文化人との交流もあり、その関係で宇都宮一族の中に多くの歌人が生まれてる。
そうした宇都宮一族の和歌を中心にまとめられたのが『新式和歌集』で、蓮生の死の直前、正元元年1259年に完成されたといわれる。藤原定家と蓮生の孫にあたる藤原為氏の撰によるとされ、186人の875首が収められている。頼綱(蓮生)の59首をはじめ、弟の塩谷朝業(信生しんしょう)、宇都宮景綱(蓮瑜れんゆ)などの宇都宮一族、源実朝、藤原定家と為家親子など、京都、鎌倉を代表する歌人が名を連ねており、宇都宮一族の文化レベルの高さや人脈の広さを示している。
■百人一首と宇都宮頼綱(蓮生)
二荒山神社に寛文12年1672年の写本が伝わっており、奥書に藤原為氏が宇都宮に下向した際に撰したもので「新式和歌集」といったが、何か事情があって一字を除いたと記されていており、それ以来「新○和歌集」と呼ばれるようになったという。
宇都宮頼綱(蓮生)の和歌は、『新式和歌集』に59首記載されているほか、『新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)』に3首、『続後撰和歌集(しょくごせんわかしゅう)』に6首、『続拾遺和歌集(しょくしゅういわかしゅう)』に6首、『新後撰和歌集(しんごせんわかしゅう)』に6首など、勅撰和歌集には39首が撰ばれており、現在約90首ほどが確認されている。
正嘉元年1257年、蓮生法師八十歳の祝が京都で行われ、婿の藤原為家は、六曲屏風左右一対の十二面に各所絵を描かせ、各月の歌十二首を加えて蓮生法師八十賀屏風歌として贈ったといわれる。
多くの歌人と交遊を持ち宇都宮歌壇の礎を築いた宇都宮頼綱(蓮生)は、正元元年1259年11月12日に82歳で亡くなった。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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