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小山政光 おやま まさみつ


No.14

 

【小山政光】

おやままさみつ

Oyama Masamitsu 


藤原秀郷の志を継いだ武士団小山氏の始祖で、鎌倉幕府を長く支えた。正室・寒河尼との夫婦が現代でも人気である


【別称・通称】太田政光〜小山政光〜蓮西

【官位】正七位下/下野大掾

【生年・没年】不詳(1100年代後半)

【時代】平安時代後期から鎌倉時代初期頃

【氏族・血族】藤原北家秀郷流小山氏の祖

【在所・所領】下野国小山/武蔵国太田

【墓所】?

【由縁の場所】栃木県小山市/祇園城址/鷲城址 など


【家系・血族】

父:太田行政または行光  

母:?

妻:寒河尼(後室)

子:朝政 長沼宗政 結城朝光 宇都宮頼綱(養子)



藤原秀郷の直系子孫で、武蔵国の役人だった太田行政の子孫。

はじめは太田(現在の埼玉県北部)を本拠としていたため

太田政光を名乗るが、先祖の藤原秀郷を意識し憧れたためか、

久安6年1150年頃、領地である下野国小山荘(現在の栃木県小山市)に移住し

小山氏の初代となる。時の政権を支えた関東八屋形のひとつ。



■小山政光と源頼朝


政光の後室で三男・朝光の生母である寒川尼は、源頼朝の乳母でもある。

治承4年1180年、源頼朝が平氏打倒の挙兵をした際、政光と嫡子の朝政は役目で京におり不在であったため、寒河尼が元服前の朝光を同道し鎌倉の頼朝宿所を訪ねた。当時、夫の不在中は妻が全般を執り仕切るのが習慣であり、このことにより小山氏は源頼朝方に付くことになり、以降頼朝の御家人として重要な立場になっていく。

そして頼朝は、小山政光とその武士団を大いに頼りとしたという。




■小山政光について伝わっている話


鎌倉幕府成立後の文治5年1189年、

源頼朝が奥州合戦で奥州へ向かう途中には、下野の政光の在所に立ち寄った。

その際、政光が頼朝を接待した時その場に熊谷直実の子・直家がいた。

政光が何者か訪ねると、頼朝は「この者は本朝無双の勇士の熊谷小次郎直家だ」と紹介。

政光が、なぜ「無双」なのかたずねると、頼朝は、「一ノ谷の戦いを始めとする平氏追討の戦場で、父直実と共に度々命がけで戦ったからである」と褒めた。

政光は大いに笑って「君(頼朝)のために命を捨てるのは、熊谷直家に限ったことではありません。ただ、この者(直家)は、郎党を持たないために自ら勲功をあげ、高名手柄にするしかないのであろう。私政光のごときは、(配下が多くいるので)ただ郎党を派遣し勲功を挙げ、忠を尽くしているのですが、皆の者、今度の戦では、自ら先頭に進んで自身で手柄を立て、本朝無双の勇士と褒めていただこうではないか。」と息子らに命じた。


この逸話は、配下の部下の戦果が功績となる大領主の「大名」武士と、自分自らで功績を立てるしかない「小名」武士の違いを示す例として、その後も広く知られることとなる。



■小山政光の3人の子


小山政光の三人の子は、

小山氏の跡を継ぎ名家として長く存続させた長男の朝政

長く鎌倉幕府を支えた長沼氏で後の皆川氏の祖となる次男の長沼宗政

弓の名手でやはり鎌倉幕府を支えた結城氏の祖で三男の結城朝光である。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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