藤原秀郷 ふじわら ひでさと
最終更新: 2020年12月10日

890~958年頃(今から1130年くらい前)
【藤原秀郷】
ふじわらひでさと
ふじわらのひでさと
Fujiwara Hidesato
【別称】俵藤太(たわらのとうた)
【生年】890年頃
【没年】950年頃 詳細不明
【氏族・血族】
藤原北家魚名流。藤原家の始祖で大化改新の立役者:藤原鎌足の直系七世の子孫。
【在所】下野国
【官位】下野国司・武蔵国司・鎮守府将軍
【墓所】佐野市新吉水町 秀郷墳墓
■秀郷の生い立ち
いわゆる武力をもって在地を治める「武士」という職業の、はじめの1人。
藤原秀郷は、名門藤原家の直系に生まれながら、その生涯の前半はよくわかっていない。
下野国の役人として赴任した曽祖父の藤原藤成から下野国に根を下ろし、祖父の豊沢、父の村雄とその位を上げて治めてきた経緯をみると、秀郷もその流れを継ぐべくして育ったといえる。相当にヤンチャで、若気の至り的な行動もあったらしいといわれているが、後世の下野国司や鎮守府将軍などの役職を賜ったことなどから見ると、多少道を外すことはあったとしても、元気の良い名門藤原家の御曹司で、それ相応の実力者であったのではないか。
■平将門の乱を平定
天慶2年(939年)八洲(今の関東)を独立しようとし朝敵とみなされた平将門が「平将門の乱」を起こすと、藤原秀郷は、朝命を受け、甥の平貞盛らと連合し、将門の本拠地である下総国に攻め「平将門の乱」を平定した。
この時秀郷は、宇都宮大明神(宇都宮二荒山神社)に戦勝祈願をし、授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。また、この時に秀郷が着用したと言われる兜「三十八間星兜」(国重要美術品)が現在も宇都宮二荒山神社に伝わっている。
この功により従四位下に叙され、下野国国司に任じられ、武蔵守、鎮守府将軍も兼任した。
秀郷の誉れは、その子孫たちを中心に、その後の多くの武士武将たちに憧れとプライドをもって引き継がれた。
■秀郷の伝説は各地に存在!
栃木県宇都宮には、秀郷が「百目鬼(どうめき)」と呼ばれる鬼を退治した物語が伝わっている。また、滋賀県近江の瀬田の唐橋を舞台とした大ムカデ退治伝説も有名で、共に将門との闘いの武勇伝のお伽話として伝承したものといわれている。
▼百目鬼退治の物語はこちらから▼
栃木県日光戦場ヶ原の名の由来も、同様に平将門の乱の平定を伝えたもので、群馬県の「赤城の大ムカデ」と「男体山の大蛇の戦い」に場面を置き換え、秀郷と思われる猿麻呂が大ムカデを弓で打ち負かすという伝説として残っている。この戦さ場が戦場ヶ原という名の由来である。
そのように、藤原秀郷は、勇壮な伝説や民話と共に錦絵なども多く伝わり、明治期までは名将として大きな人気を誇っていたが、今ではあまり名も出ることがなく、日本史上で伝えているように史実と共に名将的な伝説の多い武装貴族であったであろうと、多くの方へ伝えていきたい。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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