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藤原 利仁 ふじわらのとしひと

No.4

【藤原利仁】

ふじわら の としひと

Fujiwara no Toshihito


藤原秀郷と並び藤原氏が武家社会を創出していく時代を象徴する重要な人物。中世武人四人組の一人で斎藤氏の祖。


【別称・通称】利仁将軍(りじんしょうぐん)

【在位・官位】上野介/上総介/武蔵守/従四位下 鎮守府将軍

【生年・没年】不詳(800年代後半〜900年代前半)

利仁の娘が秀郷の孫・藤原文脩に嫁いでいることなどから、秀郷とほぼ同時代と思われる。


【時代】平安時代前期

【氏族・血族】藤原北家魚名流

父=藤原時長  

母=秦豊国の娘

妻=輔世王の娘(正室)、伴統忠の娘(側室)、藤原(忌部)有仁の娘?

子=公統、叙用、有頼、藤原文脩室 他

【在所・所領】上野〜武蔵〜上総〜下野

【墓所】宇都宮市/関白山神社

【由縁の場所】宇都宮市関白山神社/福井県敦賀市御名/利仁の館跡



藤原秀郷の孫・文脩の室は利仁の娘なので、秀郷と同時代の親戚と思われる



■群盗征伐の話


利仁将軍の名を轟かせたのは『鞍馬蓋寺縁起』にある群盗征伐の話である。


「鞍馬寺縁起」によると・・・・

奥州を押さえるべき前線の重要拠点であり、東北蝦夷への交通の要衝であった下野国。その下野国の高坐山(高蔵山)の麓に、蔵宗・蔵安を先鋒として盗賊が千人ほど集まり、関東から都へ送る物資を奪ってしまう。


そこで、それらを退治するために利仁が派遣された。縁起に《遂に凶徒を切て馘を献ず。これによつて名威天下に振ひ武略海外にかまびすし。》とあるので、蔵宗・蔵安を成敗したことで有名になったようだ。


この功績により、下野国の北部山沿い(宇都宮北部付近)を所領として受けたと思われる。

宇都宮市関白町の関白山神社に伝わる栃木県指定無形文化財「天下一関白神獅子舞」は、この地の治安を回復した鎮守府将軍・藤原利仁の伝説に由来する。




■利仁の逸話


また、『今昔物語集』に出てくる説話によれば、文徳天皇の時代、鎮守府将軍 藤原利仁が新羅征伐の命を受け出征した。その事を察知した新羅は、唐の法全阿闍梨に頼んで調伏し、ために利仁は山城・摂津国境(大阪府)の山崎で急死するという説話で、これは、そのくらい(海外でも恐れられていた)強い武士であった、という事を伝承した逸話だろう。


鎌倉幕府の記録「吾妻鑑」には、源頼朝が伝え聞いた田谷の窟(達谷の窟)の話の中に坂上田村麻呂と共に利仁も出たと記されている。これもまた、重要なそして強い武士として伝えられていたということなのだろう。


鎮守府将軍としての対象は「異類=異界の者たち」で、下野国は「異類」=奥羽に隣接する「準異界」として認識されていた。

新羅も同様に「外の世界=異界」という認識で、「異類を討伐すべし」という勅命によって新羅に出兵し、また同様に、異界(異類=蝦夷)との接点である下野国へ出兵し異類=群盗・野盗を退治することになる。


これは「異類」=「鬼」は外、福は内、という古来から現代に伝わる伝承にも繋がる。

後年、平安の代表的な武士として、坂上田村麻呂、源頼光、平井保昌と共に「中世武人四人組」と呼ばれるようになる。


次男の藤原叙用が斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。(斎宮の藤原で斎藤)






■芥川龍之介の小説「芋粥」


芥川龍之介の小説「芋粥」は利仁の逸話がモデルである。

「今昔物語集」の「利仁の将軍若き時京より敦賀に五位を将(い)て行(ゆ)きたる語(こと)」を下敷きにしている。



芋粥

時は平安時代の元慶か仁和年間の頃。主人公は、摂政藤原基経の館に勤務する風采のあがらない40歳過ぎの五位小役人。

彼は才覚もなければ見た目も貧相で、日ごろ同僚からも馬鹿にされ、道で遊ぶ子供に罵られても笑ってごまかす、情けない日常を

送っている。しかし、そんな彼にもある夢があった。それは芋粥を、いつか飽きるほど食べたいというものだった。ある集まりの際にふとつぶやいた、その望みを耳にした藤原利仁が、「ならば私が、あきるほどご馳走しましょう。北陸の私の領地にお出でなされ」と申し出る。五位は戸惑いながらその申し出に応じ、彼に連れられて領地の敦賀に出向く。しかし、利仁の館で用意された、大鍋に一杯の大量の芋粥を実際に目にして、五位はなぜか食欲が失せてしまうのであった。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。






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