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平将門 たいら の まさかど


No2


【平将門】

たいら の まさかど

Taira no Masakado


平将門の乱」を起こし、自らを新皇と称して関八州の独立を宣言したが、藤原秀郷と平貞盛の連合軍に討たれた。

伝承伝説の多い武将。



【別称・通称】豊田小次郎/相馬小次郎/新皇

【生年】(延喜3年、天慶8年頃、説) 詳細不明

【没年】天慶3年2月14日(940年3月25日) 伝・満37歳

【時代】平安中期

【氏族・血筋】桓武平氏、房総平氏(桓武天皇五世の孫)

【家系・系譜】

父:平良将  

母:県犬養春枝女  

兄弟:将持 将弘 他

妻:正室・平真樹の娘、君の御前、平良兼の娘、側室・藤原村雄の娘など

【在所・所領】下総国石井(いわい)

【墓所】東京都千代田区・将門塚/茨城県坂東市延命院

【所縁の場所】東京都千代田区/神田神社(神田明神)  

死後は、御首神社、築土神社、国王神社などにも祀られる。



桓武平氏高望の孫で父は鎮守府将軍平良将(一説に良持とも)。

伝承伝説の多い武将。




■平将門の概要


15〜6歳のころ都へ出て、藤原北家の氏長者・藤原忠平を私君とし主従関係を結ぶ。

父は鎮守府将軍で、自らも桓武天皇の五世の孫であったが、藤原政権の下では官位は低かった。

父の所領下総から官位を求めて上京したこともあったが、なかなか認められず下向、勢力を養い、豊田、猿島、相馬の3郡(ともに茨城県)を支配した。制度への反発や身内の争いなど様々な要因をもとに、武士はじめての反乱として有名な「平将門の乱(天慶の乱)」を起こすことになる。




■平将門の乱の経緯


承平5(935)年父の遺領の配分と女性問題をめぐって一族と争いを生じ、おじ国香やその姻戚の常陸(茨城県)の豪族源護の子らを殺したことで、叔父の良兼、良正や国香の子貞盛の攻撃を受けることになった。

将門はこれを打ち負かしたが、護がこの事件を朝廷に訴え出たため召喚された。運よく恩赦に浴し許され帰国した。

のち、おじたちとの争いは激しさを加えたが、これを抑えこみ国司の抗争に介入した。

天慶2(939)年武蔵国において権守の興世王、介(次官)の源経基と郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たったが、経基によって朝廷に訴えられた。その矢先、常陸国における国守藤原維幾と土豪藤原玄明の紛争で将門を頼ってきた玄明を庇護して国府を襲撃、官物を奪って放火し、この段階で国家に対する反乱とみなされた。将門は興世王にのせられ下野(栃木県)、上野(群馬県)、武蔵、相模(神奈川県)の諸国を配下におき、八幡大菩薩の神託を得たとして新皇と称して坂東八カ国の独立を宣言し、下総国猿島郡石井に王城を営み、文武百官を任命した。しかし翌年、朝廷では、征東大将軍藤原忠文に討伐させたが、その軍の到着以前に、下野押領使 藤原秀郷の助けを得た貞盛に滅ぼされた。





平将門の乱が貴族に与えた衝撃


この承平・天慶の乱が貴族に与えた衝撃は大きく、のちの争乱で「宛も承平・天慶の乱のごとし」と引きあいに出されることが多い。

侠気に富む行動に対して悪逆無道の人物という評価のある半面、国家の苛政に勇敢に反抗した英雄とのみかたもある。このことが各地に首塚など多くの遺跡を生むことにもなった。

茨城県岩井市の国王神社に将門の木像がある。

その霊は神田明神の将門社 (東京都千代田区) に祀られている。





平将門の乱以降...


平将門の乱(天慶の乱)以後、将門塚の周りで天変地異が起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を鎮めるため、時宗の僧・真教により神と祀られ、延慶2年(1309年)神田明神に合祀される。江戸時代、神田明神は幕府により、江戸城の鬼門に遷座している。

明治以降一時、朝廷に刃向かった逆賊として、神田明神から外され将門神社に遷座させられた。後、1984年再度神田明神に合祀された。


将門は武士として、また妖物として、様々な伝説があり、現代にいたるまで人気が絶えない。地獄の盟主、晒し首の伝説、鉄身伝説、七人将門伝説、現代の名主伝説、大手町の守護伝説、など。「帝都物語」(荒俣宏)に詳しい。日本三大怨霊のひとり(他の二人は、菅原道真、崇徳院)としても知られている。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。




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