【会員寄稿コラム】 藤原秀郷流を訪ねて《9》富士町を歩く~大貫越中守政宗と戦国佐野氏の終焉へ
- y-taguchi02
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2025年10月8日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
佐野支部 永島正光
1584年(天正12)12月、野州唐沢山城では大晦日の挨拶のために登城した佐野家四天王の筆頭、大貫越中守政宗(定行,武重とも)に向かって。佐野家16代当主宗綱は「越中、明日、須花から名草へ攻め入ろうと思うのだが、其方はどう思う?」「正月元旦に合戦するのは大変嫌われていると聞いております。味方の守備を固めてこそ、敵の不意を突いて勝利するものです」大貫越中が静かに答えると宗綱は大変不機嫌になったという。
25才の若殿宗綱は血気盛ん。近年、足利長尾との要谷山城の戦い、免鳥町の戦いなどで苦戦が続き、焦りもあったのは当然のこと。しかしそれ以上に父、昌綱以来の重臣と意見が合わず若い近衆を重用し、彼らをだんだん疎ましく思って来たのではないか(武田勝頼など偉大な父の後を継いだ若殿のケースと似てるような)。
そして、お気に入りの若武者を引き連れ先頭に立って、いざ、須花へ……
大将宗綱は討ち死にし、その他、田沼綱重(田沼家当主)、岩崎重久(宗綱弟、岩崎家養子)、福地慶久(椿田城主福地寧久の弟)など佐野家を将来担うであろう重臣達の子息をも大勢失ってしまった。
1585年(天正13)須花の戦いで当主宗綱が討ち死にし揺れる佐野家
大貫越中守政宗(定行,武重とも)は「さて、どうしたものか」と……
「今の北条の勢いを止めることは至難の如き、頼みの佐竹や宇都宮も南の北条に加え、北の伊達、那須もあり手一杯。佐野への助勢など期待は出来ぬ」「周囲を見渡しても、小山、壬生、日光山、足利長尾は既に北条に下り、残る皆川も風前の灯。これ以上敵対すれば滅亡は必定、ここは軍門に下り家名存続を第一に考えよう」「若殿もご無念であったとは思うが、焦らず、今しばらく熟慮されても良かったのでないか」 宗綱には娘二人(五才と三才)しかおらず、養子を頂いて佐野家を存続させるしかなかった。家中は養子を何処から頂くかで北条派と佐竹派のふたつに割れてしまった。その佐竹派の筆頭が天徳寺宝衍(佐野房綱、昌綱弟、宗綱の叔父)と山上道及で、二人はこの頃、既に武者修行と称して出奔しており上方の秀吉の傘下となっていました。
佐竹派の中心人物が不在なのもあって、大事な決断を担う大貫越中はもはや北条から後継ぎを頂き傘下となる以外はないかと思っている最中、反北条派(佐竹派)から「越中殿は以前から北条と誼を通じて何か裏約束があるのでは、いくら若殿の出陣に反対だからといっても自分の配下から一兵も出さず留守居役を決め込むなど、もはや謀反を疑われてもやむを得まい」と。佐竹派の富士源太、赤見六郎他約50名は北条派筆頭の大貫越中の館は奇襲します。政宗は奮戦するも、もはやこれまでと自害、ほか大貫一族もほとんど打ち取られてしまいました。
先代昌綱の時代より佐野家を思い重責を担ってきた大貫越中、不本意な最後も覚悟していたのかも知れません。上方で佐野での顛末の報告を受けた天徳寺宝衍は、「切腹させるほどのことはなかった」と、越中の死を嘆いたそうです。
その後佐野家は北条派の越中が自害したにも関わらず北条氏忠(父、氏康または氏堯)が宗綱の長女(国姫、5才)の婿養子となり家督を継ぎますが、5年後の1590年(天正18)秀吉の小田原征伐で北条氏が滅ぶと唐沢山城の佐野は天徳寺宝衍に与えられ、次の養子冨田信種(秀吉の重臣冨田一白の五男)が佐野信吉と改名し繋がって行きます。
「唐沢山城老談記」では天徳寺宝衍、山上道及等佐竹派は「善」大貫越中の北条派は「悪」…大貫越中は北条に佐野家を売った?、城代として私欲の限りを尽くした?…などと。軍記物語ですので明らかに作為を感じる内容となっていますが、これがあたかも事実のように伝えられているのが現状です。
こんな流れは大河ドラマ「べらぼう」の賄賂政治家、田沼意次に似ているかも。残っている資料が少ない大貫越中守政宗ですが田沼意次同様、新しい発見で彼の評価が見直される日がきっと来るのではないかと願っています、「造られた歴史はいつかは色あせる」でしょうか。
※大貫越中守の死亡時期には別の説もあって、1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原征伐では北条側の唐沢山城の城代として籠城の指揮を執り、秀吉北国軍を迎え撃ち見事な最期を遂げたと言う記録もあり、こちらの大貫越中守は前出とは別人で子息ではないかとも言われている。
唐沢山城のの南方の富士町には大貫越中の関わる遺構などが少しだけ残っています。のんびり散策していると、古くからの佐野氏の中心地である唐沢山城西側の栃本町とは少し雰囲気が違うような気がしました。
大貫氏館跡(佐野宗綱塁城)
小倉城跡(小倉義成居城)1590年の小田原征伐では越中守と同様北条軍、討ち死に
屋形山城跡(1470年佐野師綱築城)北条氏直陣地、北条氏忠館跡
大網山城、唐沢山城の出城(榎本城方面への備え)
参考資料
「北条氏忠の下野支配」 杉山 博
「郷土史論考」 高崎 寿
「佐野市史資料1」
「地誌編纂材料取調書」 富士村
「唐沢山城老談記」 他

























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