

「第34回佐野秀郷まつり」にのせて
平将門を知らずして藤原秀郷は語れない 2026.10.1 栃木の武将「藤原秀郷」をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 1.『平将門が目指したもの』 ―「調停者」から「新皇」へ― ① 東国で何が起きていたのか、律令国家の地方支配が揺らぐ 9~10世紀の東国では、国司・郡司・在地豪族などが複雑に絡み合い、土地・租税・利権をめぐる争いが起きていました。将門もまた、こうした東国社会の中に生きた在地豪族でした。 ② 将門は「争いを収める者」になった 一族間の争いを経て勢力を拡大した将門は、やがて東国の紛争に介入するようになります。武蔵国では、興世王・源経基と武蔵武芝の対立に調停者として介入しました。ここで将門は、「戦う武士」から「東国の争いを裁定する武士」へと変化していきます。 ③ しかし、調停では解決できない壁があった 常陸国の藤原玄明をめぐって、将門と常陸国府の対立が決定的になります。 そして939年、将門は常陸国府を攻撃。ここが大きな転換点です。「一地方の紛争」から「国家との対決」へ。その後、下野・上野などの国府を制圧し、坂東諸国の支配へと


ここから古への想い《3》「本多正純と佐竹義宣」―かつて自分を秋田へ追いやった男を、なぜ義宣は遇したのか—
2026年8月20日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 佐野の新吉水第一公園に本多正純の「吉水陣屋跡」の石碑。そして、戦国時代「東方の衆」として佐野氏が一緒に歩んだ佐竹氏。1585年(天正13)須花の戦いで討ち死にした佐野家16代当主佐野宗綱亡き後養子先候補だった(候補は誰だったんだろう?) 歴史には、不思議な巡り合わせがある。 慶長7年(1602)、常陸54万石余を領した佐竹義宣は、徳川家康によって出羽へ移された。先祖代々の地・常陸を離れ、秋田・仙北を中心とする地へ。その後の石高は約20万石余となり、佐竹氏にとっては大きな転機となった。原因としては関ヶ原の戦いでの曖昧な中立、上杉景勝との密約説などあるが、しかし、本音は50万石、5万の兵力を有する外様大大名を江戸近く置くのは危険と思ったのではと┅私の推測です. この転封をめぐっては、本多正信・正純父子の存在が伝えられている。『梅津政景日記』に関係する記事では、佐竹氏ほどの大大名には出羽一国を与えるべきだという意見に対し、「出羽一国では常陸と変わらない」として、半国程


【会員活動報告】佐野支部恒例ブラ散歩《6》「唐沢山神社、風鈴参道」へ
2026年8月8日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 佐野支部 永島正光 「唐沢山神社、風鈴参道」へ 今日のお目当ては親交がある「たきがわ よしひろ」さんの「和楽器納涼ライブ゙」 午後6時相乗り一台で行ったのですが、駐車場は既にほぼ満車、やっと一番遠い所に止められた。 かなりの距離がありましたがゆっくり社殿へ向かうと、通りすがりに「こんにちは、こんばんは」見たことある方々がたくさん┉ 食い違い虎口広場では「秀郷太鼓チーム」の熱演ライブ、私たちはオリジナル提灯借りてテクテクテク┉ 予報ではこれから雲行きが怪しいとのこと、「ゲリラ豪雨」が忍び寄ってきている? 気合いを入れて和服で参加のMさん、さすがに足元は草履ではヤバイのでスニーカー? さて、風鈴参道をくぐり抜けてライブ会場の拝殿へ。お参りを済ませた後、雲行きを心配して先にたきがわさんとシックス?ショット。 いよいよ開演「令和8年8月8日午後8時から8時間?の記念ライブの予定でしたが天気が怪しいので開始時間を繰り上げ時間も短縮することにいたしました、ごめんなさい。」 ...

