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平将門とはどういう人物か「その史実と伝承の間で・・・」-交流会 講演資料


◾️平将門(たいらのまさかど)


生誕:延喜3年903年生まれ(通説)(890年代とする説あり)

死没:天慶3年940年2月14日

桓武天皇の5世の孫

本拠地:下総国猿島郡、豊田郡(現在の茨城県南西部坂東市など)

祖父の平高望(高望王)は、臣籍降下して「平」姓を名乗った初代。

父:平良将(たいらのよしまさ 平高望の三男 下総国佐倉(しもうさのくにさくら)の領主)(平良持とする史料もあり)

母:県犬養春枝女

妻:正室・平真樹の娘 側室・藤原村雄の娘 他、君の御前、平良兼の娘・良子(詳細は不明)

子:良門、景遠、千代丸、五月姫、春姫、如蔵尼 (子についての明確な史料は残っていない。)

兄弟:文書により様々あり明確にはわかっていない。(※参照:相関系図)


◾️高望王(たかもちおう)


生没は不祥。

桓武天皇のひ孫。臣籍降下して「平」姓を賜る。桓武平氏の祖。高望流平氏の初代。

平高望(たいらのたかもち)

上総国(かずさのくに)国司。

父:葛原(かずらわら)親王

母:橘春成の娘

子:国香、良兼、良将、良繇(よしのり・良茂とも)、良文、良広、良持(良将?)、良正、藤原維幾室(子については、史料により異なり不明の点も多い。)(※参照:相関系図)



 

◼️第1部 「将門記」からみる平将門の生涯

将門の前半生はほぼ不明


父・良将(よしまさ)は、おそらく京都で生まれ、父(将門の祖父)の高望王(平高望)が東国に下る際に、共に下向したという。

良将は、当時の慣例に沿って地元の有力豪族に婿として入り、名は「平」を名乗った。

子も父の名を名乗るので、良将の子である将門は「平」姓を名乗った。

将門は、京の貴族と地方豪族の娘との間に生まれたため、京の文化と地方の生活と、双方を身につけて育ったと思われる。

当時の東国には、当時貴族のトップとして君臨していた藤原氏の一族をはじめ、他の平氏の一族、清和天皇の賜姓皇族である源氏やなど多くの貴族たちが、国司などの官職や各種役職として派遣され、住み着いていた。


将門は15歳で上洛したといわれる。

地方豪族が京の貴族のもとに子弟を送ることはよくあり、京で官職を得て箔をつけ、貴族とのつながりを作って地元での優位性を誇示したという。また、開発した土地を有力貴族や寺院に寄進し、税の負担減免の優遇を受けるという思惑もあった。

将門は、京の実力者藤原北家・藤原忠平の従者となった。

藤原忠平は、当時京の政権のトップにおり、菅原道真を追放したことでも有名な左大臣・藤原時平の弟で、時平の死後は藤原氏のトップに立ち、醍醐天皇を支え、摂政・関白を歴任した有力者である。

将門は、京内外の犯罪を取り締まる「検非違使」(けびいし)を志願したが採用されず、官位は低いが天皇の護衛をする「滝口の武士」に採用された。

この時代は政治体制の基盤であった「律令制」(りつりょうせい)が崩れ始めた時期で、朝廷内の要職は藤原氏が独占し、地方の政治は国司の横暴が当たり前の時代になっていた。

その結果、要職に就けない貴族は、その武力を元に武士になるしかないのだった。

将門は、その武力を持ってしても有力な役職には就けず、父・良将が死去(没年は不祥)すると、将門は夢を諦め家(領地)に帰ることになった。


発端は身内の「いざこざ」だった。


将門が領地に戻ると、死んだ父・良将の所領が叔父の平国香(陸奥大掾:みちのくのだいじょう)、平良兼(上総介:かずさのすけ)、平良正(下野介:しもつけのすけ)に横領されていることが発覚する。

加えて、将門が妻に望んだ源護(みなもとのまもる 姻戚の叔父)の3人の娘が、叔父・国香、良兼、良正に嫁いでいたこともわかった。そして、叔父の平良兼とも、良兼の娘を巡っての争ったといわれている。(「女論」といわれるが、その詳細は不明。将門の妻とされている一人に良兼の娘・良子もいる。巻頭、平将門の詳細および相関系図を参照。)

承平5年935年、将門は、叔父の国香と源護の息子・扶(たすく)ら3人と争い、彼らを討った。

ここに至って将門と源護、平良正、平良兼との対立は現実のものとなった。

承平5年935年10月、まず源護が良正とともに将門打倒を企てるが、将門に大敗。

承平6年936年7月、平良兼と平良正が平国香の嫡男・平貞盛を誘って将門に挑むが将門の勝利。

良兼、良正、貞盛の連合軍は、隣国の下野国府に逃げ込んだ。将門は下野国府を包囲するが、この時はこれ以上争わず引き上げた。



源護は、朝廷に将門の非を訴えた。

将門は、弁明のため上京するが検非違使に捕えられ尋問を受けた。

承平7年937年4月、朱雀天皇(すざくてんのう)の元服による恩赦で、将門は許された。

承平7年937年8月、平良兼、平貞盛、源護らによって官営牧場である常羽御厩(いくはのみまや)を焼かれた。常羽御厩は、将門の重要拠点の一つであった。(子飼の渡しの戦い)


承平7年937年11月、将門の立場が朝廷により全面的に認められ、朝廷は、平良兼、平貞盛、源護らを追討する官符(命令書)を出した。追討の官符が出ても関東の国司は、将門には非協力的だった。

将門は有利に戦ったが状況は進まず膠着した。

承平8年938年2月、立場が悪くなった平貞盛は京へ上り弁明しようと出立する。朝廷に告訴されることを阻止したい将門は100騎を率いてこれを追撃、信濃国千曲川で追いついて合戦となった。貞盛は、配下の多くが討たれるも身ひとつで逃亡。上洛した貞盛は将門の暴状を朝廷に訴え、今度は将門への召喚状が出された。

承平8年938年6月、貞盛は東国へ帰国すると常陸介・藤原維幾(ふじわらのこれちか)に召喚状を渡し、維幾は召喚状を将門に送るが、将門はこれに応じなかった。

体勢が危うくなった貞盛は、陸奥国へ逃れようとするが将門側に追われ、それ以後東国を流浪することになり行方がわからなくなった。

その後良兼軍の勢力は衰え、天慶2年939年6月、良兼は病死した。

将門の連戦連勝ぶりと実力は関東で大きく広まり、名声を高めた。


将門、朝廷と対立する。


天慶2年939年2月、武蔵国へ新たに赴任した権守・興世王(おきよおう)と介の源経基(つねもと清和源氏の祖)が、足立郡における前の郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)と紛争になった。

将門が調停に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させようとしたが、武芝の兵が経基の陣営を包囲し、驚いた経基は逃げ出し京に戻ってしまった。

経基は、朝廷に将門、興世王、武芝の謀反を訴えた。

将門の元の主人である太政大臣・藤原忠平が事の真相を調べることになり、御教書(指示書)を下して使者を東国へ送った。

天慶2年939年5月、将門は驚いたが、関東5カ国の国府の証明書をそえて朝廷に送った。これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられることとなった。

朝廷は、将門の関東での人気と実力を知り、将門を叙位任官して取り立て、朝廷側に引き入れようとしたのであろう。

武蔵権守の興世王は、正式な受領として朝廷より赴任してきた武蔵守・百済王貞連(くだらのこにきし さだつら)と対立、興世王は将門を頼るようになった。

天慶2年939年11月、藤原玄明(ふじわらのはるあき)が、年貢の不払い問題等で常陸国司と対立し、将門に助けを求めた。

常陸国司は将門に藤原玄明の引渡しを要求するが、将門は応じず戦いになった。

将門の兵は1000、常陸国府軍は3000。

将門は、常陸国府を襲い「印綬」(いんじゅ:朝廷が国司に与えた任命書)を略奪した。

これは、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味する。このことにより、将門は真に朝敵となった。

「1カ国を奪うも関東8カ国を奪うも同じこと」という側近のささやきに将門も同意(「将門記」による)、

どうせ朝廷に咎められるなら、勢力を万全にしておいた方が、今後の交渉の有利と考えたのか、

天慶2年939年12月11日に下野国府、15日に上野国府を襲撃。国司の行政機能を標的とし、印鎰と帳簿4種を奪った。

そして将門は関東一円を巡回、各国の国司は逃げ出したという。


左:下野国印(レプリカ) 右:常陸国印


朝廷は驚いた。

それまで、将門が関係する戦いを「東国の一地方のゴタゴタ、領地と女をめぐる親族間の揉め事」程度だと思っていた事が、実は自分たち朝廷に向かっているのだ、ということにようやく気付いた。

当時の国内状況、朝廷の要職は藤原氏が独占し、地方の政治は国司が横暴に振る舞ってやりたい放題、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況に、将門は、かなり憤慨していたという。将門が助けた藤原玄明は、そんな状況に対して税金を払わず、朝廷が管理する米を民衆に分け与えていた人物。つまり、将門が闘っていたのは親族内の叔父ではなく、叔父の職務である国司とそれを任命した朝廷だったといえる。

将門はさらに勢いを増し、各国国司から次々と印綬を奪って追放していった。

上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・常陸(ひたち)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の関東八か国を占領し、朝廷の悪政に苦しんでいた民衆を味方に付けていった。



そして、自らを「新皇」と名乗った。


そして、自らを「新皇」と名乗った。

これは、将門が占有した坂東八カ国が朝廷から独立したことを意味する。

そして、将門は関東の国司を勝手に任命した。

下野守=平将頼(将門の弟)