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平将門とはどういう人物か「その史実と伝承の間で・・・」-交流会 講演資料


◾️平将門(たいらのまさかど)


生誕:延喜3年903年生まれ(通説)(890年代とする説あり)

死没:天慶3年940年2月14日

桓武天皇の5世の孫

本拠地:下総国猿島郡、豊田郡(現在の茨城県南西部坂東市など)

祖父の平高望(高望王)は、臣籍降下して「平」姓を名乗った初代。

父:平良将(たいらのよしまさ 平高望の三男 下総国佐倉(しもうさのくにさくら)の領主)(平良持とする史料もあり)

母:県犬養春枝女

妻:正室・平真樹の娘 側室・藤原村雄の娘 他、君の御前、平良兼の娘・良子(詳細は不明)

子:良門、景遠、千代丸、五月姫、春姫、如蔵尼 (子についての明確な史料は残っていない。)

兄弟:文書により様々あり明確にはわかっていない。(※参照:相関系図)


◾️高望王(たかもちおう)


生没は不祥。

桓武天皇のひ孫。臣籍降下して「平」姓を賜る。桓武平氏の祖。高望流平氏の初代。

平高望(たいらのたかもち)

上総国(かずさのくに)国司。

父:葛原(かずらわら)親王

母:橘春成の娘

子:国香、良兼、良将、良繇(よしのり・良茂とも)、良文、良広、良持(良将?)、良正、藤原維幾室(子については、史料により異なり不明の点も多い。)(※参照:相関系図)



 

◼️第1部 「将門記」からみる平将門の生涯

将門の前半生はほぼ不明


父・良将(よしまさ)は、おそらく京都で生まれ、父(将門の祖父)の高望王(平高望)が東国に下る際に、共に下向したという。

良将は、当時の慣例に沿って地元の有力豪族に婿として入り、名は「平」を名乗った。

子も父の名を名乗るので、良将の子である将門は「平」姓を名乗った。

将門は、京の貴族と地方豪族の娘との間に生まれたため、京の文化と地方の生活と、双方を身につけて育ったと思われる。

当時の東国には、当時貴族のトップとして君臨していた藤原氏の一族をはじめ、他の平氏の一族、清和天皇の賜姓皇族である源氏やなど多くの貴族たちが、国司などの官職や各種役職として派遣され、住み着いていた。


将門は15歳で上洛したといわれる。

地方豪族が京の貴族のもとに子弟を送ることはよくあり、京で官職を得て箔をつけ、貴族とのつながりを作って地元での優位性を誇示したという。また、開発した土地を有力貴族や寺院に寄進し、税の負担減免の優遇を受けるという思惑もあった。

将門は、京の実力者藤原北家・藤原忠平の従者となった。

藤原忠平は、当時京の政権のトップにおり、菅原道真を追放したことでも有名な左大臣・藤原時平の弟で、時平の死後は藤原氏のトップに立ち、醍醐天皇を支え、摂政・関白を歴任した有力者である。

将門は、京内外の犯罪を取り締まる「検非違使」(けびいし)を志願したが採用されず、官位は低いが天皇の護衛をする「滝口の武士」に採用された。

この時代は政治体制の基盤であった「律令制」(りつりょうせい)が崩れ始めた時期で、朝廷内の要職は藤原氏が独占し、地方の政治は国司の横暴が当たり前の時代になっていた。

その結果、要職に就けない貴族は、その武力を元に武士になるしかないのだった。

将門は、その武力を持ってしても有力な役職には就けず、父・良将が死去(没年は不祥)すると、将門は夢を諦め家(領地)に帰ることになった。


発端は身内の「いざこざ」だった。


将門が領地に戻ると、死んだ父・良将の所領が叔父の平国香(陸奥大掾:みちのくのだいじょう)、平良兼(上総介:かずさのすけ)、平良正(下野介:しもつけのすけ)に横領されていることが発覚する。

加えて、将門が妻に望んだ源護(みなもとのまもる 姻戚の叔父)の3人の娘が、叔父・国香、良兼、良正に嫁いでいたこともわかった。そして、叔父の平良兼とも、良兼の娘を巡っての争ったといわれている。(「女論」といわれるが、その詳細は不明。将門の妻とされている一人に良兼の娘・良子もいる。巻頭、平将門の詳細および相関系図を参照。)

承平5年935年、将門は、叔父の国香と源護の息子・扶(たすく)ら3人と争い、彼らを討った。

ここに至って将門と源護、平良正、平良兼との対立は現実のものとなった。

承平5年935年10月、まず源護が良正とともに将門打倒を企てるが、将門に大敗。

承平6年936年7月、平良兼と平良正が平国香の嫡男・平貞盛を誘って将門に挑むが将門の勝利。

良兼、良正、貞盛の連合軍は、隣国の下野国府に逃げ込んだ。将門は下野国府を包囲するが、この時はこれ以上争わず引き上げた。



源護は、朝廷に将門の非を訴えた。

将門は、弁明のため上京するが検非違使に捕えられ尋問を受けた。

承平7年937年4月、朱雀天皇(すざくてんのう)の元服による恩赦で、将門は許された。

承平7年937年8月、平良兼、平貞盛、源護らによって官営牧場である常羽御厩(いくはのみまや)を焼かれた。常羽御厩は、将門の重要拠点の一つであった。(子飼の渡しの戦い)


承平7年937年11月、将門の立場が朝廷により全面的に認められ、朝廷は、平良兼、平貞盛、源護らを追討する官符(命令書)を出した。追討の官符が出ても関東の国司は、将門には非協力的だった。

将門は有利に戦ったが状況は進まず膠着した。

承平8年938年2月、立場が悪くなった平貞盛は京へ上り弁明しようと出立する。朝廷に告訴されることを阻止したい将門は100騎を率いてこれを追撃、信濃国千曲川で追いついて合戦となった。貞盛は、配下の多くが討たれるも身ひとつで逃亡。上洛した貞盛は将門の暴状を朝廷に訴え、今度は将門への召喚状が出された。

承平8年938年6月、貞盛は東国へ帰国すると常陸介・藤原維幾(ふじわらのこれちか)に召喚状を渡し、維幾は召喚状を将門に送るが、将門はこれに応じなかった。

体勢が危うくなった貞盛は、陸奥国へ逃れようとするが将門側に追われ、それ以後東国を流浪することになり行方がわからなくなった。

その後良兼軍の勢力は衰え、天慶2年939年6月、良兼は病死した。

将門の連戦連勝ぶりと実力は関東で大きく広まり、名声を高めた。


将門、朝廷と対立する。


天慶2年939年2月、武蔵国へ新たに赴任した権守・興世王(おきよおう)と介の源経基(つねもと清和源氏の祖)が、足立郡における前の郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)と紛争になった。

将門が調停に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させようとしたが、武芝の兵が経基の陣営を包囲し、驚いた経基は逃げ出し京に戻ってしまった。

経基は、朝廷に将門、興世王、武芝の謀反を訴えた。

将門の元の主人である太政大臣・藤原忠平が事の真相を調べることになり、御教書(指示書)を下して使者を東国へ送った。

天慶2年939年5月、将門は驚いたが、関東5カ国の国府の証明書をそえて朝廷に送った。これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられることとなった。

朝廷は、将門の関東での人気と実力を知り、将門を叙位任官して取り立て、朝廷側に引き入れようとしたのであろう。

武蔵権守の興世王は、正式な受領として朝廷より赴任してきた武蔵守・百済王貞連(くだらのこにきし さだつら)と対立、興世王は将門を頼るようになった。

天慶2年939年11月、藤原玄明(ふじわらのはるあき)が、年貢の不払い問題等で常陸国司と対立し、将門に助けを求めた。

常陸国司は将門に藤原玄明の引渡しを要求するが、将門は応じず戦いになった。

将門の兵は1000、常陸国府軍は3000。

将門は、常陸国府を襲い「印綬」(いんじゅ:朝廷が国司に与えた任命書)を略奪した。

これは、将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味する。このことにより、将門は真に朝敵となった。

「1カ国を奪うも関東8カ国を奪うも同じこと」という側近のささやきに将門も同意(「将門記」による)、

どうせ朝廷に咎められるなら、勢力を万全にしておいた方が、今後の交渉の有利と考えたのか、

天慶2年939年12月11日に下野国府、15日に上野国府を襲撃。国司の行政機能を標的とし、印鎰と帳簿4種を奪った。

そして将門は関東一円を巡回、各国の国司は逃げ出したという。


左:下野国印(レプリカ) 右:常陸国印


朝廷は驚いた。

それまで、将門が関係する戦いを「東国の一地方のゴタゴタ、領地と女をめぐる親族間の揉め事」程度だと思っていた事が、実は自分たち朝廷に向かっているのだ、ということにようやく気付いた。

当時の国内状況、朝廷の要職は藤原氏が独占し、地方の政治は国司が横暴に振る舞ってやりたい放題、民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況に、将門は、かなり憤慨していたという。将門が助けた藤原玄明は、そんな状況に対して税金を払わず、朝廷が管理する米を民衆に分け与えていた人物。つまり、将門が闘っていたのは親族内の叔父ではなく、叔父の職務である国司とそれを任命した朝廷だったといえる。

将門はさらに勢いを増し、各国国司から次々と印綬を奪って追放していった。

上総(かずさ)・下総(しもうさ)・安房(あわ)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・常陸(ひたち)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の関東八か国を占領し、朝廷の悪政に苦しんでいた民衆を味方に付けていった。



そして、自らを「新皇」と名乗った。


そして、自らを「新皇」と名乗った。

これは、将門が占有した坂東八カ国が朝廷から独立したことを意味する。

そして、将門は関東の国司を勝手に任命した。

下野守=平将頼(将門の弟)

上野守=多治経明(常羽御厩別当=官営牧場管理者)

常陸介=藤原玄茂(常陸掾=3等官)

上総介=興世王(武蔵権守、将門側近)

下総守=平将為(将門の弟)

安房守=文屋好立(将門の家臣)

相模守=平将文(将門の弟)

伊豆守=平将武(将門の弟)

将門の謀反は、即刻朝廷に報告され、朝廷は将門討伐を決定。将門を調伏すため祈禱(きとう)をしたが、将門には効果なし。

天慶3年940年1月、朝廷は将門討伐のため老貴族・藤原忠文を征東大将軍に任命した。

加えて、関東では各国の掾(四等官の3番目)が任命され、将門追討を命じられた。

そして朝廷は、「将門を討ち取った者は、身分を問わず貴族にする」との通達を出した。

以前から将門と対立していた平貞盛は、同じ坂東の有力武士団で姻戚関係でもある下野掾・藤原秀郷に応援を求めて出陣した。



将門の最期は?


最終決戦は、天慶3年940年2月14日午後3時ごろであったと伝わる。

将門の軍は半農半兵であったため、農繁期のこの時期(現在の4月ごろ)兵が集まらず総数1000人以下。

藤原秀郷軍は4000人が集まったという。

初めは風上に立つ将門が優位に立った。

「将門記」によると、戦況が進むにつれ、秀郷軍は3000人余りの兵が死傷したり逃げて、最後に残ったのは精鋭300人だったといわれる。武功に長けた将門軍は、少数でも相当強かったのだろう。

戦いが進み時間が経つと、風向きが変わり将門軍は風下に立ってしまう。

この時期季節の変わり目で、冬の寒い木枯らしと、春の強風春一番が勝敗を分けた、とも伝えられる。

将門の最後は、「将門記」によると神仏の矢に当たって倒れたといわれ、「古事談」によると平貞盛の矢が当たって落馬した将門の首を秀郷が取ったと伝わる。

あっけない最期であった。

新皇の宣言後わずか50日であった。

最後の決戦は、猿島の北山といわれる。そこには現在、北山稲荷社がある。

伝承として伝えられた終焉の地としては、同じ猿島の神田山ともいわれている。

そこには、将門の娘の如蔵尼が庵を結んだ地で、如蔵尼が彫ったと伝わる「平将門木像」が御神体とされる国王神社がある。


国王神社

北山稲荷神社


朝廷の正規軍である征東大将軍・藤原忠文は間に合わなかった。

将門を討ったのは、貴族が率いた正規軍ではなく、将門と同じ地方の武士であった。

そして、そのことが、その後の社会の動静を左右することになる。

将門を討伐したのが平国香の子・貞盛で、この貞盛の六代後の子孫が平清盛である。

平清盛は、平治元年1159年の平治の乱で勝利し、武家の棟梁となった。同時に貴族の頂点の太政大臣にも任命され、当時朝廷の要職を独占していた藤原氏をしのぎ、政治の実権を握った。

将門を倒した敵の子孫でありながら、清盛は、将門が理想とした「武士が中心となって政治を行なう」世の中を実現した。

日本は、朝廷が統治する貴族の時代は終わり、兵を従えて戦い勢力を広げていく武士の時代に変わっていくのである。


 

◼️第2部 歴史小話


◎当時の時代背景


・大化の改新以来の「律令制」が崩壊。

「公地公民制=人民と土地は全て天皇のもの)が崩壊

「三世一身の法」「墾田永年私財法」による税の徴収システムが崩壊。

・朝廷は何も手を打たず、ただ税を納めれば良い、とした。

何もしない朝廷や貴族の体制が崩壊しはじめ、時代の要請として、武力をもって地域を治める武士が表舞台に登場してくる。


◎「将門記(しょうもんき)」


成立は天慶3年940年6月、と文中に記される。

日本で最初の軍記物語。

作者は、文体や本文、内容を他の文献などと照らし合わせて推測すると在京の官吏で、時代の出来事として記録したものではないかといわれている。

原本はなく、写本が2冊現存。



◎「将門記」におけるおもな将門伝承


・鉄身伝説・・・将門は鉄の体を持つという伝説と身体の弱点の伝説

・七人将門・・・影武者七人説、六人説、桔梗伝説、妙見伝説





・冥界伝説・・・冥界を舞台とする将門伝説

・調伏伝説・・・調伏祈願や調伏した際の伝説

・首の伝説・・・将門の首の怪異現象の伝説

・将門祭祀伝説・・・将門を神として祀る際の伝説

・王城伝説・・・将門が建てた王城(居館)に関する伝説

・親族伝説・・・父母、兄弟、子、に関わる伝説

・東西の呼応伝説・・・西の藤原純友との共謀説

・追討者の伝説・・・藤原秀郷、平貞盛などにまつわる伝説



◎「御伽草子(おとぎぞうし)」



室町時代から江戸初期にかけて作られた短編の物語。

写本、絵巻物、奈良絵本として伝わる。

江戸時代、享保時代の頃、大坂の書店、渋川清右衛門がそのうちの23編を集めて「御伽文庫」と名づけて出版、その作品を「御伽草子」と呼んだ。

以後、室町時代頃に成立したこれに類する小説類をもそう呼ぶ。

多くは、空想的、教訓的、啓蒙的、民話的なお話しで、総数三百編以上にのぼる。



◎「御伽草子」に書かれた将門といくつかの伝説


(御伽草子 俵藤太物語によると)

将門は、身長七尺余りで五体はことごとく鉄からなり、左眼には二つの瞳があった。また六人の影武者をしたがえ、どれが将門本体か見分けがつかないようにしていた。そこで俵藤太こと藤原秀郷は知略をめぐらして将門の寵妃小宰相に近づき、彼女の口から、将門の本体は日光や燎火(かがりび)に向かうと影を生じるが、影武者六体には影がないこと、また将門は鉄身であるが、こめかみだけは肉身であることを聞きだし、見事、弱点のこめかみを射て将門を討ち取った。

(伝説)

・左の目には瞳が二つある。左目で睨まれると鳥が二羽落ちた。

・将門の体には矢は刺さらない。

・七人(または六人とも)の影武者がいる。(※参照:前出)

・将門の妻・桔梗の前が俵藤太に将門の弱点を伝える。

こめかみが弱点。影武者には影がない。

・桔梗の前は秀郷の妹という。

・将門の娘・瀧夜叉姫の伝承。

滝夜叉姫は、夜叉丸や蜘蛛丸などの手下と妖術を使い、朝廷転覆の反乱を起こした。

手下である将門の重臣・文屋好立は、死ぬと巨大な髑髏となって現れる。

「善知鳥安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)」作:山東京伝の作品で、芝居、歌舞伎の演目。

歌川国芳によって描かれた有名な浮世絵「相馬の古内裏(ふるだいり)」は、「妖怪がしゃ髑髏」として現代においても人気がある。



◎将門と秀郷の秘密会談の伝承


対決前、将門と秀郷が対面したという伝承がある。

元々姻戚の遠縁であった将門と秀郷は、顔馴染みであったという。

将門は髪を結わずに会談に臨み、食事をぼろぼろこぼすという無作法さで、秀郷は、「将門は信じるに値しない人物、味方をするのはやめよう」と態度を改めたという話。

これは『御伽草子』の「俵藤太物語」や直接関係ない『源平盛衰記』に出ているが、将門の出自や育ちを考えると、いかにも将門を落としめようとする誇張した表現で、後世の創作といわれている。



◎将門の強さの秘密は?


将門の強さの秘密は、将門を倒したライバル、下野国の藤原秀郷にも同様のことがいえるが、革新的な戦法と武器にあったといわれる。

拠点は霞ケ浦西側。大小の沼が点在する低湿地で、のどかな現在とは全く違う情景だった。

農作地には不向きだが、沼と川が天然の堀となって馬の放牧は可能で馬が逃げる心配もなく、牧場には最適で馬の一大生産地だった。

近年、製鉄遺跡も多く発見され、武器製造の鋳造も行われていたと考えられている。

新たな武器刀剣である日本刀の誕生にも影響した可能性がある。

馬を使った騎馬軍団の戦法も使われていたといわれるが、馬上での戦いには、まっすぐな刀よりも反った形状の方が有効だったといわれる。馬で移動中に敵を狙うのは、反った刀でなぎ倒す方が効率も良いという。

この時代は、弓矢が主要な武器でもあったが、射手の腕に左右される弓矢より、騎馬軍団で一気に接近して刀でなぎ倒す戦法が有効だったと思われる。

将門は、戦い方にも坂東独特の新しい戦法を生み出していったのかもしれない。



◎平将門の乱(天慶の乱)と藤原純友の乱(承平の乱)


平安時代中期のほぼ同時期に起きた関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱が、一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事から「承平天慶の乱」と呼称されている。

鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏各々の武力を借りたことで、日本の歴史上においてに源平二氏が進出するきっかけにもなった。



◼️第3部 将門にまつわる神社や伝承

江戸と家康を守る将門


江戸には、「平将門の結界」が張られているという。

「結界」とは、ある特定の場所へ不浄や災いを招かないために作られる、宗教的な線引きのこと。

その中のある七つの神社を線で結ぶと、「北斗七星」の形をした結界になっているという。

その神社による結界が作られたのは、江戸幕府が開かれる際のこと。

この「北斗七星=将門の結界」を作ったのは江戸幕府で、考案者は、幕府が開かれた際、徳川家康の側近として仕えた南光坊天海だといわれている。

結界を張ると、聖なる領域とそれ以外の俗なる領域とが区別され、聖なる領域は、より清浄化し、その領域には

邪悪なエネルギーが極力排除された空間になる。

そこで、天海は、将門の怨霊の力を利用して、江戸と徳川家康を霊的に守護しようとした、といわれている。

ではなぜ、天海は、「北斗七星」の形をした結界を張ったのか?

平将門が、妙見信仰をしていたことと関係があるようだ。

妙見信仰とは、北極星を神とした信仰で、北極星は天界、人界、冥界の三界を支配するとされた。

仏教では、北極星や北斗七星を神格化して妙見菩薩を祀ったのである。妙見菩薩は、物事の真相を見極める力を持っているとされ、妙見菩薩を信仰することで、国土を守り災厄を防ぐことができると信じられていた。

伝説によれば、武勇に長けた将門は、妙見菩薩のご加護を受け、関東八カ国を治めるようになったが、将門が「日本将軍平親王(ひのもとしょうぐんたいらしんのう)」を名乗るようになると、将門は神をも恐れなくなった、として、妙見菩薩は、将門のもとを離れた…とも伝わっている。

南光坊天海は、この妙見信仰をベースに、家康の死後、家康を北極星に準え、江戸から北極星を見た方角(真北)に位置する日光に家康の墓地を構え江戸の守り神としたともいわれる。



江戸の「北斗七星」七社

(1)鎧神社 新宿区北新宿3-16-18

名の由来としては、平将門公が使用したという鎧が境内に埋められているという伝説が残る。

ヤマトタケルが東征の際、甲冑六具をこの地に奉納したともいわれる。


(2)水稲荷神社 新宿区西早稲田三丁目5-43

将門を討伐した藤原秀郷が、討伐の翌年に勧請した神社と伝わる。


(3)筑土八幡神社 新宿区筑土八幡町2-1

江戸時代には将門信仰のあった築土神社と境内を分けて並んで建っていた。

本来の北斗七星を構成していたのは、その後移転してしまった築土神社なのかもしれない。


(4)神田明神 千代田区外神田2-16-2

創建730年 言わずと知れた平将門を祀った神社。

元は将門塚(将門の首塚)にあったが、江戸幕府により、表鬼門守護の目的で現在の場所に移された。

一之宮の大己貴命(おおむなちのみこと)大黒様、二之宮の少彦名命(すくなひこなのみこと)こと恵比寿様と三之宮として平将門命が祀られている。

武士の先駆けとして民衆たちに慕われた将門だが、明治政府は、将門は天皇に刃向かった逆賊と見なし一時は摂社(本社に付属する本社と末社との間に位置するもの)に遷され1984年に再び本殿に祀られた。地元の言い伝えでは、神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないといわれている。


(5)将門の首塚 千代田区大手町

日本最強のミステリースポットの一つで、「祟(たた)りを起こす」と言われる心霊スポット。「将門塚(しょうもんづか)」とも呼ばれている。

元々明治期は大蔵省の敷地内であったが、塚を潰そうとしたり移転しようとするたびに異変が起こり、現在までその地で祀られている。(後述)


(6)兜神社 中央区日本橋兜町1-12

東京証券取引所がある日本橋兜(かぶと)町の地名の由来となった。

神社にある「兜岩」は、平将門を討った藤原秀郷が、供養のため兜を埋めて作った塚の名残りだと伝わる。


(7)鳥越神社 台東区鳥越2-4-1

将門の首がここを飛び越していったので「飛び越え→鳥越」という地名の由来が伝わる。

現在、この鳥越神社の宮司は代々千葉氏という一族が務め、祖先を辿ると平将門の叔父にあたる平良文につながるといわれる。



〜その他の将門由来の神社〜


・築土神社 千代田区九段北1-14-21

将門の首が飛んだ話しは、怨念の強さを強調するための作り話で、本当はこの神社に平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)が安置されているという。


・國王神社 茨城県坂東市岩井951

平将門が討たれた地とされている場所に建つ古い神社。

将門の三女・如蔵尼が、庵を結んだのが始まりといわれる。

御神体は、将門の娘が彫ったという「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)


・延命院 茨城県坂東市神田山715

京に首が送られたあと、残された将門の遺体をひそかに葬ったと伝わる胴塚がある。

ここは、相馬御厨(そうまみくりや)と呼ばれる神聖な土地だったために、誰にも暴かれることなく、現在に至っているそうである。


・成田山新勝寺

平将門の乱鎮圧のため、朝廷によって創建されたと伝わる。

天慶3年940年、東国の混乱を恐れた朱雀天皇は、京の僧・寛朝大僧正に、平将門を調伏するための密勅を出した。

寛明は、弘法大師(空海)が彫ったと伝わる不動明王を捧持して上総国に向かい、下総国公津ヶ原(成田)に不動明王を安置して護摩を焚き21日間、戦乱が鎮まるように祈願した。

戦いは、それまでは、北風が強く風上に陣取った将門には有利だったが、祈願最後の日、風向きが突如反転し将門が風下になると形勢逆転、藤原秀郷が放った矢が将門に命中したという。

乱が鎮まり、寛朝が都へ帰ろうとしたところ、御尊像が石のごとく動かず、この地に留まるようお告げが出たことから、ここに成田山新勝寺が創建されたと伝わっている。

1000年以上たった現在でも、将門の子孫や崇敬者が成田山新勝寺に参拝しようとすると、将門の加護を受けられなくなるだけでなく、道中、災いが起こると信じられるようになり、将門の子孫・家来・ファンは決して、成田山にはお参りに行かないそうである。



将門の首塚の伝説と神田明神の由来



平将門の乱の後、下総国で討たれた平将門の首は京都に運ばれて七条河原で晒された。

その首は、何ヶ月経っても生きているかのように目を見開いて腐らず、夜な夜な

「斬られし我が五体 何のところにかあるらん 此処に来たれ 頭続(くびついで)今一軍(いまひといくさ)せん」(斬られた私の胴体はどこにあるのか。持って来い。首をつないでもう一戦しよう)

と叫び続けていたといわれる。

それを歌人の藤六左近(とうろくさこん)が見て、歌を詠んだ。

「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」

すると、将門の首はケタケタと笑い出し、関東の方角に高く飛んでいったという。

しかし、首はその途中で力尽き、武蔵国の江戸の豊島郡芝崎(現代の千代田区神田)に落ちたといわれている。

この時、大地は鳴動し、当たりは暗くなったと言われ、祟りを恐れた村人は、将門の首が落ちた場所に塚を築き祠を建てて祀った。

その場所が、現在、将門塚(しょうもんづか)=首塚となっており、その場所が、当時の神田明神の由緒となった。

その後も、将門塚の周辺で、「首無し死体が歩いたり、首が飛来したり」といった怪しい噂話しが語られ、疫病や天変地異も頻発したことから、人々は将門の祟りであると恐れるようになったという。

そこで、1307年時宗の真教上人が、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って、首塚の前に板石塔婆を建て、将門を日輪寺で供養した。その2年後には、神田明神でも将門の霊を祀ったので、ようやく将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれている。

首が落ちたとされる伝承地は全国に複数あり、将門の首塚とされる場所や、将門の首を密かに持ち去って祀ったとする神社も数多くある。

現在の神田という地名も、将門の「躯=体(からだ)」が訛って「神田」となったという説も残っている。


右:将門首塚 平将門故蹟考 左:現在の将門塚


歴代の将門塚所在


日本三大怨霊


平将門は、崇徳天皇(すとくてんのう)、菅原道真(すがわらのみちざね)と共に、「日本三大怨霊」と呼ばれ、「将門塚」は古くから江戸における霊地とされてきた。今も、「将門塚」と「神田明神」は、将門を祀る東京の二大霊場で、心霊スポットとして有名だ。だからこそ、ここで不敬な行為を行えば将門の祟りがあるという怨霊伝承が生まれ、現代も都市伝説として語り継がれている。

関東大震災後の1923年、首塚があった跡地に、首塚を潰して、大蔵省の仮庁舎を建築した際、そのときの工事関係者や省職員、さらには当時の大蔵大臣・早速整爾(はやみせいじ)氏ら数名(一説に14名)が急死するという、不可解な出来事が起こった。このため、大蔵省内で平将門の祟りの噂が広まり、結局、仮庁舎は取り壊わされた。

1945年には、GHQ(連合国軍総司令部)が周辺の区画整理を行い、将門塚一帯を駐車場にする工事を行うと、工事中のブルドーザーが転倒して運転手が死亡するなど、不審な事故が相次いだため計画が取り止めになった。

こうした事象からか、将門塚周辺のオフィスでは将門塚に背を向けないようにデスクが配置されているそうである。

また逆に守護神としては、周辺の企業では海外出張や転勤の際、カエルの像を奉納して祈願すると無事に帰れる、などとして祈願参拝されている。

2020年の東京五輪(オリンピック)に向けた大手町再開発の際もそのまま残されている。

右:崇徳上皇 左:菅原道真

 

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