足利成氏 あしかが しげうじ
最終更新: 1月15日

File No. 39
【足利成氏】
あしかがしげうじ
shigeuji-ashikaga
第五代で最後の鎌倉公方で初代の古河公方。
He is the fifth and the last “KAMAKURA Shogun” and is the first “KOGA Shogun”.
【別名】永寿王
【生年】永享10年1438年
【没年】明応6年1497年
【氏族・血族】源氏 足利氏
【在所・所領】下野国足利
【主君】足利義政〜義尚〜義稙
■古河公方の呼び名について
文安4年(1447年)に鎌倉に入り鎌倉公方となったが、成氏のもとに結集した公方派と関東管領上杉憲忠を核とする上杉派との対立は深まった。
享徳3年(1454年)の暮れ、上杉憲忠を御所に招いて謀殺。
翌康正1年(1455年)には鎌倉を出発して武蔵で上杉方と戦い、以後上杉方と全面的な対立となる。
結局そのまま下総の古河に入り、その後は鎌倉に戻ることはなく、古河に居を定めた。
幕府は、将軍足利義政の弟政知を伊豆堀越に下し、関東を鎮定させようとした。政知を堀越公方、成氏を古河公方と呼ぶのはここから出た呼称である。
■生涯
成氏の生涯は、混乱の中ほとんどを戦いに身を投じた人生であったが、その最期はついに鎌倉に戻ることはなく古河で終えることとなった。
明応6年(1497年)死去。享年60歳。
臨終の際には嫡子の政氏を呼び、「我れ空く成行くとも、秘計を廻らし敵を打従へ、再び鎌倉に還住し、関八州を手に属せば、中々無双の孝行なるべし」
「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。何にも勝る弔いになる」
と言い残したという。
「いつかはまた鎌倉へ戻りたい」と強く望んでいたのであろう。
その後古河公方は五代まで続いた。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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