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【第29話】北条泰時がしみじみと回顧 海に消えた「弓馬の友」下河辺行秀とは誰?(2023年1月6日 投稿)




水野先生コラム:29回目

ライター:『鎌倉殿と不都合な御家人たち 「鎌倉殿」の周りに集まった面々は、トラブルメーカーばかり?』(まんがびと)『小山殿の三兄弟』(ブイツーソリューション)、『藤原秀郷』(小学館スクウェア)著者・水野拓昌



『吾妻鏡』に一度きりしか登場しないのですが、とても気になる人物がいます。名は下河辺行秀。下河辺行平の弟と思われ、小山3兄弟の従兄弟であり、藤原秀郷の子孫の一人のはずですが、系図とか、ほかの史料に全く出てこない謎の人物です。そして、執権・北条泰時のもとに届いた手紙とは? 最もマイナーな武士の悲しい秘話です。



■最もマイナーな武士?下河辺六郎行秀法師

歴史上、名も知られていない武士は無数にいて、下河辺行秀を「最もマイナー」というのもおかしなものですが、史料に登場しながらもほぼ無名なので、マイナーさを強調したくなった次第です。『吾妻鏡』1233年(天福元年)5月27日の記事です。3代執権・北条泰時(義時の長男)が1通の手紙を将軍の前で披露しました。

「3月7日、那智勝浦から補陀落(ふだらく)渡海した者がいて、智定房といい、これは下河辺六郎行秀法師です」

北条泰時は若いころ弓馬の友だったとしみじみ懐かしみます。

下河辺行秀とは誰なのでしょうか。下河辺の苗字は下河辺行平の父・下河辺行義から始まるので、該当者は行義の子孫に限られます。下河辺行義の兄弟は、小山政光、大田行広、大河戸行方(重行)とそれぞれ苗字が違います。

1183年(寿永2年)生まれの北条泰時の友人、近い世代となると、下河辺行平の弟が最も妥当。下河辺行平の子息、または甥(行平の弟・下河辺政義の子)とすれば、かなり若いときの子ということになります。また、下河辺行平が最も信頼する家臣に自身の苗字を与えた(一族待遇にした)可能性もなくはないのですが……。


■狩りの失態で出奔 40年ぶりの消息

北条泰時はなぜか下河辺氏に親しく、『吾妻鏡』には承久の乱のとき、幸島(さしま)行時という武士が登場します。わざわざ「下河辺ともいう」と注釈があり、系図では確認できませんが、下河辺行平の子と思われます。京への進軍は一族の小山朝長に従っていましたが、行軍中に小山軍から離れて泰時の軍勢に加わります。泰時は酒宴の上座に招き、大歓迎。そして、幸島行時は小山の陣を離れたときの宣言通り、宇治川で戦死しました。

下河辺行秀の手紙に話を戻します。

行秀が法師(僧侶)になったのは随分昔でした。那須での狩りのとき、弓の名手として源頼朝に命じられたにもかかわらず、大きな鹿を外してしまい、小山朝政が仕留めます。下河辺行秀は恥じて出家。そのまま行方不明になっていたのです。那須野巻き狩りは1193年(建久4年)4月。曽我兄弟仇討ち事件の前月です。そして、最近になって熊野にいたことが分かったというのです。

40年ぶりに知る弓馬の友の消息。北条泰時の胸中はどのようなものだったのでしょうか。手紙には、出家後を含め、これまでのことが詳しく書かれていたとありますが、その内容をうかがい知ることはできません。


■補陀落渡海 出口のない小舟で浄土へ…

補陀落渡海とは何でしょうか。

井上靖の短編「補陀落渡海記」などでご存じの方も多いかもしれません。熊野の南、紀州の海岸にある補陀落山寺(和歌山県那智勝浦町)などから小舟に乗って観音の浄土「補陀落」を目指す奇習です。その小舟は特殊で、櫓も舵もなく、船上に小さな小屋があります。扉も窓もない小屋に入ったら外側から釘を打ちつけます。二度と外には出られません。30日程度の食料とあかり用の灯油があるだけです。

即身仏同様、真に浄土に向かう僧侶として尊敬を受けますが、海を漂い続けながら、ゆっくりと生命の灯が消えていく事実上の自殺行為。下河辺行平が補陀落山寺の住職でもないのに補陀落渡海を決行した経緯は不明ですが、武士を捨て仏道に生きた40年間、激動の世をどう見ていたのでしょうか。

ちなみに、二荒山(日光・男体山)の語源も「ふだらく」→「ふたら」とする「補陀落」説が有力です。


【次回のコラムも乞うご期待!】


▼前回【第28話】のコラムを見る▼


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