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北条 義時 ほうじょう よしとき


No.26


【北条 義時】

ほうじょう よしとき 

Hojo Yoshitoki


北条時政の子で政子の弟。鎌倉幕府第二代執権で、実質的に鎌倉幕府を取り仕切った。鎌倉殿の十三人の一人。


【別称・通称】江間四郎/江馬小四郎/相州/右京兆/奥州

【官位】相摸守/従四位下/右京権大夫/陸奥守

【生年】長寛元年(1163年)

【没年】元仁元年(1224年)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血族】桓武平氏/北条氏

【在所・所領】?

【墓所】伊豆の国市南江間/北條寺/鎌倉市頼朝法華堂の東の山

【由縁の場所】鎌倉/小田原


【家系・系譜】

父:北条時政 

母:伊東入道の娘

兄弟:宗時、政子、義時、時房、政範、阿波局、時子他

妻:?

正室:姫の前 

継室:伊賀の方 

側室:阿波局、伊佐朝政の娘、他

子:泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、時尚、竹殿、女子(一条実雅室) 他



鎌倉幕府の第二代執権。

伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家北条氏第二代目当主。




北条義時の生い立ち



平家が盛んな時代。北条義時もまた、不思議な運命に弄ばれた武将といえるかもしれない。

伊豆の弱小豪族の北条氏の次男坊に過ぎなかった義時は、将来に望みはなく、いずれは兄・北条宗時の配下につく以外に考えられなかった。


やがて、源頼朝平清盛によって伊豆に流され、紆余曲折の後北条館に逃れてきたとき、北条氏の当主・北条時政は、頼朝の運命を予想できたためか、住居を提供し、それ以降頼朝に仕えることになる。


そんな北条時政の二男の義時の運命が回り始めたのは、姉・政子が源頼朝と結婚してからである。


その後の義兄・源頼朝の挙兵とその後の運命は、義時自身にとっても予想していなかったことであろう。




頼朝の義時への信頼、13人の御家人に選ばれる

治承4年1180年、頼朝挙が平家打倒の挙兵をし、それに北条氏も従軍することになる。

石橋山の戦で長兄の宗時が討死したことから、家督は義時が継ぐこととなり、その後は義時も頼朝の側近として行動することになる。


平氏との合戦や奥州合戦で戦功をあげると、建久1年1190年の頼朝の上洛では「家臣の最となす」とまで頼朝の信頼を得る。


建久10年1199年、頼朝が落馬が元で亡くなると、義時は姉の尼将軍・政子と共に活動し、正治元年1199年第二代将軍・源頼家を補佐する十三人の御家人の一人に選ばれる。(鎌倉幕府十三人の御家人)


建仁3年1203年、比企氏の乱では、頼家の子一幡を襲撃、政子の御所を襲った仁田忠常らを退けて、将軍源実朝を擁立した。




比企の乱の後


その後、父・時政との対立が深まり、元久2年1205年の畠山重忠の追討事件を契機に、政子の協力を得て、時政とその後妻である牧の方、娘婿・平賀朝雅を退け幕府の実権を掌握した。


建保4年1216年には従四位下になり、翌年陸奥守となる。

義時の権力が拡大するに伴い、反発もまた強くなり、実朝も反発を始める。

承久1年1219年1月、将軍・実朝が暗殺された。真相は不明だが、義時が黒幕であったともいわれている。




執権政治への流れ


そして、政子が幕府を掌握すると、義時は自ら使者として上洛し、後鳥羽上皇と交渉の上、九条家から三寅(藤原頼経)を将軍の後継に迎え、尼将軍・政子の下で実権を握り幕府政治をすすめた。


こうした幕府の専横体制に対抗して後鳥羽上皇は倒幕を計画、それを知った義時と政子は、配下の武士団をまとめて上洛させ朝廷軍を破り、後鳥羽上皇以下順徳天皇、土御門上皇ら関係者を処罰した。(承久の乱)


元仁元年1224年、幕府の体制構築途中で急死した。後妻が毒殺したとの噂もある。

義時の死後、政子が泰時を後継者に指名、以後執権政治が本格的に展開することになる。






※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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