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小山朝政 おやま ともまさ 


No.22

 

【小山朝政】

おやま ともまさ 

Oyama Tomomasa


鎌倉幕府を支えた小山三兄弟の長男。源頼朝に秀郷流の流鏑馬を伝えるなど武勇に優れ、小山氏永続の基盤を作った。


【別称・通称】朝政〜生西(法名)

【官位】検非違使/従五位下/下野守

【生年】保元3年(1158年)

【没年】嘉禎4年(1238年)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代前期

【氏族・血族】藤原北家秀郷流小山氏

【在所・所領】下野国小山/下野国寒河御厨(小山庄)を本貫地とする。

【墓所】?

【由縁の場所】栃木県小山市/神奈川県鎌倉市


【家系・系譜】

兄弟:吉見朝信、長沼宗政結城朝光、久下重光、島田政照、(養兄弟)宇都宮頼綱



小山氏初代・小山政光の長男で小山氏の第二代当主となる。

早くから鎌倉幕府に仕え、下野国守護、播磨国守護になったほか、晩年には下野守にも任ぜられた。


父の小山政光は、武蔵国の太田氏の出身ながら下野小山に移住して小山氏を名乗り、八田宗綱の娘で源頼朝の乳母である寒河尼を後室にしていた。




源頼朝との関係


治承4年1180年、源頼朝は平氏打倒の兵を挙げ、小山朝政にも参戦を求める書状がきた。

母の寒河尼は子の朝光(朝政の弟)を伴って頼朝の下に参じ、朝政もまた早い時期に従ったと考えられている。(源平合戦)


野木の宮の合戦では、弟の長沼宗政らと共に平家軍志田義広と戦った。朝政は、義広の射った矢を受け落馬したりもしたが、無事に攻め破った。


頼朝に戦勝を告げると、頼朝は志田義広の所領を収め、朝政らに恩賞を与えた。

奥州合戦においても頼朝に従軍して参戦した。


下野古多橋駅(現・宇都宮市)にて宇都宮社(二荒山神社)に戦勝祈念をした際、その宿所で父・政光が頼朝をもてなした。その場に熊谷直家が在り、政光が「直家は何者か」と質問すると、頼朝は直家を無双の勇士と評し、直家は配下が少なく源平合戦では自らが戦った、と褒め称えた。


政光は子の朝政・宗政・朝光ら兄弟と、その場にいた血縁の宇都宮頼綱に対し、今度は自らが刀を持って戦い、無双のお褒めをもらうよう命ずる。頼朝はこれを聞くと大変面白がったという。



左衛門尉に任じられている


建久元年1190年の冬、頼朝の上洛に随行し、石清水八幡宮への参拝では行列の先頭を務める。


同年、頼朝の右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれた。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り右衛門尉に任ぜられる。


建久3年1192年、野木宮合戦の功により常陸村田下庄の地頭に補任される。この時、左衛門尉に任じられている。



藤原秀郷から引き継がれた流鏑馬


建久5年1194年10月9日、頼朝が朝政の家を訪問する。頼朝は、朝政の兄弟以下の一族や弓馬に堪能な御家人を集めて古い記録や先例を調べさせながら流鏑馬の作法について語らせ、それを中原仲業に記録させたという。


流鏑馬の流派は藤原秀郷にその始めがあると伝えられていて、頼朝は鎌倉で流鏑馬をするにあたり、秀郷流流鏑馬の流れをくむ小山氏に手本を求めたと思われる。



嘉禎4年3月30日没。84歳と長命であった。




※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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