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蒲生 氏郷 がもう うじさと


No.58


【蒲生 氏郷】

がもう うじさと 

Gamo Ujisato



群雄割拠の時代、主君は替われども秀郷流の誇りとその才覚で会津92万石の城主となる。キリシタン大名でもあった。



【別称・通称】鶴千代(幼名)/賦秀または教秀/レオン(洗礼名)

【官位】従四位下侍従/正四位下左近衛少将/従三位参議

【生年】弘治2年(1556年)

【没年】文禄4年(1595年)

【時代】戦国時代〜安土桃山時代

【氏族・血族】藤原北家秀郷流/近江蒲生氏

【在所・所領】近江国日野/伊勢国松坂/陸奥国会津黒川(若松)

【墓所】大徳寺(京都市)/興徳寺(会津若松市)

【由縁の場所】滋賀県蒲生郡/三重県松坂市/福島県会津若松市


【家系・系譜】

父:蒲生賢秀  

母:おきり(後藤播磨守の娘)

妹:三条殿(とら 秀吉側室)

妻:相応院(織田信長娘)

子:籍(前田利政正室)秀行 

養女:三の丸殿(秀吉側室)



蒲生氏は藤原秀郷の子孫の名門武家であり、氏郷は、そのことを強く意識し誇りに思っていたらしい。名の氏郷の郷は秀郷を意識してのことという。


勇猛果敢な武将で文化人でもあった氏郷は、キリシタン大名としても知られている。





蒲生氏郷の生い立ち


永禄11年1568年氏郷の父・蒲生賢秀(かたひで)は、嫡子・鶴千代(氏郷の幼名)を人質に差し出して織田信長に臣従した。当時の鶴千代(氏郷)は、禅僧に学問を学び、斎藤利三の勧めで武芸を極めた文武両道の若武者であった。そんな鶴千代と会った信長は、「蒲生の息子は、目付きが只者ではない。私の婿にしよう」と言い、実際に信長自身が烏帽子親(えぼしおや/仮親)をつとめ、自身の次女を娶らせる約束をしたという。


その後、氏郷は信長のもとで小谷城攻めや長島の合戦、長篠の戦いといった名だたる戦に従軍し、戦さを学び、武功を立てていくことになる。


天正10年1582年織田信長は、明智光秀の謀反?によって本能寺で自刃。この時氏郷は、信長の一族を近江(現在の滋賀県)の日野城に匿った。


山崎の戦いで光秀を討った豊臣秀吉は、この氏郷の行動を大変高く評価し、その年氏郷は蒲生の家督を継いだ。


氏郷は、清州会議以後秀吉の臣下となり、さらに小牧・長久手の戦いなどで手柄を立てて、出世していく。




会津黒川42万石


天正12年1584年には、伊勢の松ヶ島(現在の松坂市)に転封し12万石を与えられ、自ら城を築いた。


後北条氏を制圧した小田原攻めなど、秀吉の天下統一事業への功が認められた氏郷は、秀吉の奥州仕置により、天正18年1590年に伊勢松坂から会津黒川(現在の会津若松)42万石に移封された。


その当時会津は、奥州の覇権を狙う伊達政宗に攻め入られその支配下に入っていた。小田原攻めを征した秀吉は、後北条氏と同盟関係にあった伊達家の存続は許したものの、領土の一部であった会津は召し上げ、そのあとに氏郷を移封し、仙台を本拠地とする政宗を氏郷に見張らせる狙いがあったといわれている。


秀吉から会津42万石を与えられたとき、氏郷は広間の柱に寄りかかり涙ぐんだという。秀吉が近習の者に「氏郷は奥州に行くことをどう思っているのか」と聞くと、近習は「大変迷惑がっております」と答えた。秀吉は「いかにももっともなことだ。氏郷をこちらに置いておくと、恐ろしい奴なので、それで奥州につかわすのだ」と言ったといわれている。


このことからも、氏郷の存在は大きく、秀吉といえども氏郷に対して、決して心を許していなかったことがわれる。




現在の会津若松市街地の原型を築いた


会津へ入った氏郷は、早速会津若松城の整備に取り掛かる。

郷里の近江から多くの人材を呼び、今も残る野面積みの天守台と七層の天守閣を築いた。ちなみに現在の天守閣は寛永年間に建てられた5層の天守閣の復元である。この城は、氏郷の幼名を冠して地元の人から鶴ヶ城と呼ばれる。また氏郷は、城下町づくりにも力を入れ、この時の城下町が現在の会津若松市街地の原型となっている。


氏郷は、治世にあたり信長の楽市楽座令にならっている。近江から伊勢、会津へと転籍を重ねる度に、商工業者も連れていったという。


加えて、木地師と塗師は漆器づくりなど、近江国の優れた手工業技術を上方から招き地元に定着させ、酒造や金工についても高い技術を持った職人の技を会津へ移入させることで、付加価値の高い商品を生み出す基盤を築いた。千利休に茶道を習い、文化人としても高い教養のあった氏郷らしい政策だったといえる。商工業が発展した上方を見た氏郷だからこそ、会津に強力な経済基盤を築くことができたといわれている。


今なお会津では、塗と地酒が地場産業として続けられており、氏郷の功績は長く会津若松に恩恵をもたらしている。


この地方は、もともと蘆名氏や伊達氏が治めた時代は黒川という地名だったが、氏郷が入封してからは故郷である近江国蒲生郷の地名・若松の森から若松と名付けられたという。42万石から始まった会津藩は、その後も増領を繰り返し、92万石にいたる大領となった。




晩年


文禄4年1595年氏郷は40歳でこの世を去る。死因は病死と伝えられるが、あまりにも若すぎる死にいくつかの謀殺説も伝えられている。


氏郷の死後、その子、鶴千代(のちの秀行)が13歳の若さで跡を継ぐが、慶長3年1598年幼弱で家中を統率できないという理由で、下野国宇都宮18万石に減封された。この宇都宮時代、秀行の弟・正行が側室に産ませた子を、再び会津に移封の時に宇都宮に残し、その子孫が蒲生を名乗る。


そして18世紀後半に誕生した子孫が、尊皇論者で天皇陵の研究において「前方後円」という古墳名を提唱した蒲生君平である。君平は、同時代の仙台藩の林子平や上野の高山彦九郎と共に「寛政の三奇人」の一人に数えられる。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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