八田知家 はったともいえ
最終更新: 1月8日

File No.13
【八田知家】
はったともいえ
tomoie-hatta
関東八屋形の一つに数えられる小田氏の始祖。優れた策略で常陸を手中にする。
The first of ODA family and as one of a famous samurai group Kanto-Hachiyakata.
He has got Hitachi country by an excellent scheme.
【別名】八田四郎 筑後入道尊念
【生年】康治元年
【没年】建保6年 (1142〜1218)
【氏族・血族】
宇都宮氏〜小田氏
宇都宮氏二代八田宗綱の四男
【所領】常陸国小田
■八田知家の概要
系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局という記述もある。鎌倉幕府の十三人合議制の宿老の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。
保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。
源頼朝挙兵に早くから参加、下野国茂木郡地頭職に従いていた。
野木宮合戦に従軍。元暦元年、源範頼率いる平氏追討軍に従軍。
文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と小山朝政と共に罵倒されている。
文治5年(1189年)の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰めた。
建久4年(1193年)曾我兄弟の仇討ちをきっかけに、北条時政と謀り、従兄弟である常陸大掾氏の多気義幹を罠にはめて領地を没収。自分の本拠地を下野から常陸に移し守護に補任された。
建久10年(1199年)頼朝が没し、後を継いだ二代将軍源頼家の専制を抑えるために結成された十三人合議制の宿老の一人となる。
鎌倉の知家の邸宅が、京都からの使者の宿所にしばしば充てられていることから、知家は京都との繋がりも深く、京都の文化にも通じていたと思われる。
※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。
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