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皆川広照 みながわ ひろてる 


No. 57


【皆川広照】

みながわひろてる

Minagawa Hiroteru


時代に波に翻弄された皆川藩主。上杉、北条、織田、徳川と渡り歩き江戸幕府の譜代として生き残った秀郷子孫の一人。


【別称・通称】又三郎/広照/老圃斎

【官位】従四位下/山城守

【生年】天文17年(1548年)

【没年】寛永4年(1628年)

【時代】戦国時代〜江戸時代初期

【氏族・血族】秀郷流長沼氏・皆川氏

【在所・所領】下野国栃木皆川

【墓所】栃木市皆川城内町金剛寺

【由縁の場所】栃木市 皆川城址(法螺貝城)


【家系・系譜】

父:皆川俊宗 

母:水谷治持の娘

兄弟:広勝、広秀、広長、広忠

妻:正室・中御門宣綱の娘(北条氏政養女)

側室・鶴子(壬生綱雄の娘)

子:勝照、隆庸、宗富



秀郷流小山氏の子孫の下野皆川藩主。

信濃飯山藩主、常陸府中藩初代藩主でもある。

下野皆川城主、下野栃木城主。




皆川氏について


皆川氏は、小山氏、結城氏と並ぶ藤原秀郷の長沼氏の流れをくむ関東の名門氏族だが、皆川宗家は14世紀に廃嫡となり、その流れは長沼氏に継がれた。

その後戦国の時代に入り、広照の三代前・宗成が皆川氏の名跡を継ぎ、皆川宗成として復活する。




■皆川広照について


皆川広照は処世術に優れ、小勢力ながらも上杉、北条、織田、徳川などのときの実力者を渡り歩き、江戸時代の譜代大名として生き残りに成功した。


徳川家康の家臣となったのは豊臣秀吉による小田原征伐の時で、元々は宇都宮氏に従い北条氏の軍勢にいたが、秀吉が20万の軍勢で小田原城を包囲した時に、家来100人とともに小田原城を決死の脱出。北条勢の隙を突いて一気に城を抜け出した。



■広照の時代の趨勢(すうせい)を見る目


群雄割拠渦巻く戦国の動乱の中で、北条氏とともに滅亡した武将や、誰につくのか戸惑った武将が多い中で、広照は、紆余曲折を経ながらも徳川家康の元につき、動乱の難しい時代を生き残った。時代の趨勢を見る目を持っていたようだ。


家康も広照の能力を高く買っていたという。

宇都宮氏や佐野氏などの豊臣臣下の武将がいた下野の勢力を必要としたのではないか。


広照は、領内で狂言を催したり、茶道をはじめとする文化にも造詣が深かったといわれている。


千利休の弟子の山上宗二が関東へ下っていた時に、茶の秘伝書である『山上宗二記』を託された内の一人でもあった。


皆川家は、広照の二代後の孫・成郷に嫡子が生まれず無嗣断絶となり、弟の秀隆が旗本の一人として皆川家の血筋を継いだ。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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