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皆川広照 みながわひろてる 

最終更新: 1月15日


File No. 49

【皆川広照】

みながわひろてる

hiroteru-minagawa


江戸時代まで続いた秀郷流の名門皆川氏。


【生年】天文17年1548年

【没年】寛永4年1628年

【系譜血族】秀郷流長沼氏・皆川氏

【所領】下野国栃木皆川

【主君】

宇都宮国綱〜北条氏政・氏直〜滝川一益〜宇都宮国綱

〜北条氏直〜徳川家康〜松平忠輝〜徳川秀忠〜徳川家光

【墓地】栃木市皆川城内町金剛寺

【由縁の場所】皆川城址(法螺貝城)


戦国大名

下野皆川城主。下野栃木城主。

下野皆川藩主、信濃飯山藩主、常陸府中藩初代藩主。


■皆川氏について

皆川氏は、小山氏、結城氏と並び藤原秀郷の子孫の長沼氏の流れをくむ関東の名門だが、皆川宗家は14世紀に廃嫡となり、その流れは長沼氏に継がれた。

その後戦国の世に入り、広照の三代前・宗成が皆川氏の名跡を継ぎ、皆川宗成として皆川氏は復活する。



■皆川広照について

皆川広照は処世術に優れ、小勢力ながらも上杉、北条、織田、徳川などのときの実力者を渡り歩き、江戸時代の譜代大名として生き残りに成功した。


徳川家康の家臣となったのは豊臣秀吉による小田原征伐の時で、元々は宇都宮氏に従い北条氏の軍勢にいたが、秀吉が20万の軍勢で小田原城を包囲した時に、家来100人とともに小田原城を決死の脱出。北条勢の隙を突いて一気に城を抜け出した。


群雄割拠する仙谷の動乱の中で、北条氏とともに滅亡した武将がいたり、どちらにつくのか戸惑った武将が多い中で、広照は、紆余曲折を経て徳川家康につき、難しい時代を生き残った。時代の趨勢を見る目を持っていたようだ。

家康も広照の能力を高く買っていたという。


宇都宮氏や佐野氏などの豊臣臣下の武将がいた下野の勢力が必要だったのではないか。

また広照は、領内で狂言を催したり、茶道をはじめとする文化にも造詣が深かったといわれる。

千利休の弟子の山上宗二が関東へ下っていた時に、茶の秘伝書である『山上宗二記』を託された内の一人でもあった。


皆川氏は、広照の二代後の孫・成郷に嫡子が生まれず無嗣断絶となり、弟の秀隆が旗本の一人として皆川家の血筋を継いだ。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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