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【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑧

2025年7月4日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

会員 安延 嶺央





栃木県の那須氏と、伊東氏が関与していると何度か書いた琉球南山王統(1337~1429)の始まった1330年代は、激動の時代でした。建武の新政から中先代の乱を経て、足利尊氏は後醍醐天皇と対立するようになり、征夷大将軍となり、室町時代が始まっています。この時代に琉球でも南山王統が始まっている、というだけでも偶然とは思えないところですが、今回は視野を広げて、琉球とは反対の北方を見てみましょう。



若狭と那覇「若狭」 海の道で繋がる北と南


足利尊氏は、後醍醐天皇との離反後、1335年には奥州総大将を置いています。1345年には奥州総大将は廃止され、代わりに奥州管領が置かれていますが、これらの目的は、足利氏が奥州を掌握し、交易の利を得ることにあり、足利氏配下の者を総大将に任命しています。ちょうどこの時期、津軽つまり現在の青森県の十三湊は北方との交易で栄えており、安東氏が蝦夷から津軽、南は若狭へと至る交易を掌握していました。

 

 つまり、南方と北方で、全く同時期に全く同じことが行われているのです。足利氏に従う坂東武者による交易の支配です。そして、那須氏はこの時期、足利市の北方政策に関与していません。これ以前、那須与一が源頼朝に備中荏原荘を恩賞として与えられ、それにより琉球交易を行った実績(琉球の舜天王統)を買われて南方の任を与えられたため、なのではないでしょうか?


 また、安東氏が蝦夷から若狭、つまり北海道から福井県までの海上交易を掌握していたならば、琉球から五島列島、壱岐対馬を経て若狭までを掌握していたのは九州西岸の海の民でしょう。若狭で中継することにより、中国大陸南部から琉球、九州、若狭、東北、北海道までの広域交易ルートが完成します。若狭と沖縄の繋がりは深く、現在の沖縄の中心である那覇市の海に面した地域に「若狭」という古くからの地名があります。 


 福井県の若狭は古来製塩で有名ですが、沖縄県でも那覇市若狭に隣接する前島では製塩が行われてきました。逆に、福井県の若狭は、「人魚の肉」を食べることによって大変な長命を得たと言われる八百比丘尼伝説が全国でも特に濃厚に分布する地域でもあり、源平合戦後に那須与一が源頼朝から恩賞地として賜った土地でもあります。


 このように、福井県の若狭と琉球は古来、海上交通を通じて密接な関係にあり、この海の道を、当時政権を掌握した足利氏やその配下の那須氏や伊東氏その他坂東武者が利用することにより南方の交易に参画したのではないでしょうか。


 北方と南方の違いは、北方は正式な官職名を与えられ、記録として残っているが、南方はそうではないことです。これは中国に朝貢する、つまり漢民族に頭を下げることを公的な形としたくない当時の列島の政権担当者の思惑なのか、または、懐良親王の征西府など、西南方面は争いの火種が残っていたためまずは実績のある那須氏に交易を任せ、非公式の形で進めていたのか、なのでしょうか?



尚氏交代と足利氏の影


それから100年ほど時代は進み、琉球は三山統一がなされて南山王統は終焉を迎え、統一王朝である第一尚氏の時代となります。そしてその1469年、応仁の乱勃発の2年後に、第一尚氏から第二尚氏への不思議な政権交代が起きます。第一尚氏の尚徳王が死去した後、別の王統に置き換わりますが、王の姓は尚氏そのままなのです。そのため、琉球史の上では、第一尚氏、第二尚氏と呼び分けて区別しています。

 

その立役者が安里(あさと)大親です。尚徳王死去後、後継者を決めるために重臣たちが集まっている場で、安里大親が突然、

「虎の子は虎、悪王の子や悪王、物呉ゆすど我御主、内間御鎖ど我御主」

と神がかりのように歌いだし、一同がそれに賛同して、尚円金丸が擁立された、と言われている、大変不思議な話です。

 

話としては何か神秘的で面白いですが、王統が入れ替わるような重大なことがこれほど簡単に決まるわけはありません。そこで、安里大親の名前から調べてみました。

まず、奄美には安里と同音の朝戸という姓が分布していて、沖縄本島のすぐ北にある与論島(鹿児島県)には、朝戸という地名もあります。そして、沖縄・奄美以外だと朝戸姓がどこに分布しているかを調べてみると、何と栃木県足利市なのです。さらに、安里大親の父は山田按司とされていますが、山田姓について調べると、全国に広く分布しているものの、栃木県内で見ると、やはり圧倒的に足利市に多く分布しています。

 

つまり、安里大親が神がかりにより後継者を決めた話は、クーデターではなく、足利将軍の意向を伝えたことの暗示なのではないでしょうか。当時の将軍は、33歳の足利義政で、この3年前には琉球王国の使者と会っていたりもします。

那覇市内には、「碁打の御嶽」と言って、安里大親と第二尚氏の初代王となる尚円金丸が碁を打ちながら政権転覆の密談を重ねたと言われる場所もありますが、元々公家・僧侶の文化だった囲碁が武士や庶民にも親しまれるようになったのも、室町時代です。



坂東武者の面影を現代沖縄に見る


現代でも沖縄は、様々な意味で重要な土地ですが、飛行機や長距離航路による貿易、インターネットによる情報伝達がなかった時代にはその重要性はさらに高く、足利将軍直々、またはごく側近の意向が働くのはごく自然なことでしょう。

 

鎌倉時代から室町時代は、列島を東北から南西へと貫く交易ルートが整備され、武家政権によって掌握された時代でもあるのではないでしょうか。その中で、那須氏が源頼朝から西日本を含む恩賞地を与えられていたり、栃木県を本貫地とする足利氏が政権を把握していたりするので、現代の沖縄にも栃木県の影響が残っているのです。


 現代の日本は東京中心で、徳川家康の作った枠組みの延長上にあり、その後、明治維新や終戦などいくつかの節目を経て現代に至っているところです。一方、沖縄は、琉球王国として独自に発展した文化も貴重かつ魅力的であることは言うまでもありませんが、根本の部分では、徳川家康以前の坂東武者が列島の主導権を握っていた頃の日本から派生した、興味の尽きない地域でもあります。




筆者プロフィール

安延 嶺央 (やすのぶ れお)


関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。


▼ 「note」 でも栃木県と沖縄県をテーマにした記事を掲載中です






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