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長野業正 ながのなりまさ

最終更新: 1月15日


File No. 41

【長野業正】

ながのなりまさ

narimasa-nagano


群雄割拠の関東で武田信玄の侵攻をたびたび退けた猛将である。


【生年】延徳3年1491年

【没年】永禄4年1561年

【氏族・血族】上野長野氏

【所領】上野箕輪城主

【主君】上杉憲政〜謙信


長野氏は在原業平の子孫といわれ、代々当主の名前に「業」の字が使われている。


■活躍について

長野業正は子宝に恵まれ、12人いたといわれる娘達を近隣の諸豪族に嫁がせ、そのネットワークで勢力を堅実なものにした。

その長野氏を筆頭とするネットワーク箕輪衆は、その中に上泉信綱などの名将もいて、関東管領山内上杉家の上杉憲政に属する勢力として大きな勢力を持っていた。


ただ、業正は上杉憲政とはあまりそりが合わなかったらしい。

憲政は業正の忠言をあまり聞かず、憲政は笛吹峠で武田に敗れたという話もある。

また、長野氏は河越合戦に参加し、長男の吉業は重傷を負い死去するなど、相性の悪い主君の下で相当の苦労を経験していた。


業正は、それでも関東管領上杉家に従い、その後を継いだ長尾景虎(上杉謙信)の勢力として活躍し、武田信玄を散々に悩ませることとなる。

信玄が上野に侵攻してきた時は、諸豪族を取りまとめて信玄に対抗。野戦では敗れたものの、籠城して数度に渡って武田軍を撃退したとも言われる。

これらの活躍から、業正のことを「上州の黄斑(虎の意味)」と呼ぶようになった、といわれる。(これは江戸時代の軍記本の創作という説もある。)


■伝承について

もともと戦国当時の記録には彼の活躍がほとんど残っていないが、しかし、たとえ業正が何度も信玄を撃退していないとしても、信玄が業正の外交力などを恐れていたのは事実なのだろう。

業正が死ぬと信玄の侵攻が本格的になった、という伝承もあり、信玄が業正と戦うのを避けていたとも伝わる。


いろいろな伝承や説があるとしても、業正が上杉氏・北条氏・武田氏の三強にかこまれた危険地帯にいながらも、領地を死守して長野氏の隆盛を築いたことは確かで、業正が名将であったことは間違いないであろう。


業正は死を前にして嫡男の業盛を呼び、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我の法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言したという。

まさしく激動の時代の名将らしい最後と言える。



※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。


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