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【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑥

2025年6月14日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

会員 安延 嶺央





南山王統は舜天王統の再始動だった?


琉球の王統には、舜天・英祖・察度・南山とありますが、私は、南山王統(1337~1429)は、西日本の拠点が十分でなかったために、火山の噴火がもたらした世界的な気候不順による飢饉の時に立ち行かなくなってしまった舜天王統(1187~1259)を日向伊東氏の協力を得て、西日本の拠点を強化して再開したもの、と考えています。


舜天王統が終わってから南山王統が始まるまでの78年の間には元寇があり、その後朝鮮半島を通じた交易が再び行われるようになってから南山王統が始まっています。つまり、琉球を通じて得た南方の物産を半島へ売ることで利を得ていたのでしょう。


為朝伝説と“ナスの御嶽”が語る那須氏との関係性


舜天王統の時は、西日本の拠点は那須与一が恩賞として得た備中荏原荘のみでしたが、1337年の南山王統開始の2年前には伊東氏が日向に拠点を得ており、また、宮崎県には舜天王統創始時にはいなかった椎葉村の那須氏もいます


舜天王統、南山王統、那須氏、伊東氏が繋がることをご説明しましょう。


まず、南山王統の後期の拠点があった糸満高嶺城のすぐ隣には、『和解森』があり、源為朝と大里按司の娘が逢った場所であるとされています。そして生まれた男子が舜天になったとされていますが、この話は源頼朝と伊東祐親の娘の話と相似形です。


南山城跡/糸満市指定史跡
南山城跡/糸満市指定史跡

舜天王統の王たちが祀られているところは、「ナスの御嶽」と呼ばれており、その本拠地(沖縄県北中城村)には那須地方と共通する地名や姓が分布しています。そして南山王統の糸満高嶺城やその周辺に那須烏山と共通する地名や姓が分布することは前回お話した通りです。

こうして舜天王統、南山王統、那須氏、伊東氏がそれぞれ繋がってきます。



琉球王統と南九州武家勢力の交錯


この後の南九州の歴史は島津氏と伊東氏のせめぎ合いですが、南山以降の王統に関しても、島津氏の勢力伸長と尚巴志(第一尚氏)、伊東氏の盛り返しと尚円金丸(第二尚氏)の勢力拡大の時期が一致しています。


仮に第一尚氏が宗氏の一派であるなら、氏族は島津氏と同じ惟宗氏、となります。

つまり、琉球交易利権を巡る、島津・宗連合(惟宗氏系九州海賊)と、那須・伊東連合(坂東武者系)のせめぎ合いが舜天、南山、第一尚氏、第二尚氏の初期までの琉球の歴史であって、第二尚氏の尚円金丸の名は栃木県の那須八幡金丸神社と関係があり、有名な1609年の島津氏による琉球侵攻もこの流れの中に位置づけられることである可能性すらあるのかもしれない、と私は考えています。



足利政権と琉球南山王統の時代背景


最後に、南山王統開始前後の日本列島の政治史を簡潔に整理してみましょう。


1318 後醍醐天皇(30歳)即位

1333 六波羅探題滅亡(足利尊氏(28歳)関与)

1333-1336 建武の新政(~1392南北朝)

1335 伊東氏の日向(宮崎県)支配開始

1337 琉球南山王統開始

1338-1352 足利尊氏(33歳〜47歳)征夷大将軍

※足利氏の本貫は下野国足利荘

※那須氏は足利尊氏に恭順。


このようになっています。足利尊氏の動向と連動があり、那須氏が主体的に実施、伊東氏が協力者であるように見えます。足利将軍と琉球の関係については別の王統についてもあるのですが、それは別の機会にお話したいと思います。

重要なのはこの時期、栃木県を本貫地とする足利氏が日本列島の実権を握っていた、ということです。




筆者プロフィール

安延 嶺央 (やすのぶ れお)


関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。


▼ 「note」 でも栃木県と沖縄県をテーマにした記事を掲載中です






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