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二階堂 行政 にかいどう ゆきまさ


No.17


【二階堂 行政】

にかいどう ゆきまさ 

Nikaido Yukimasa


藤原南家乙麻呂流の名門で、文官として親子三代にわたって鎌倉幕府を支えた。鎌倉殿の十三人の一人。


【別称・通称】?

【官位】?

【生年】不詳(1140年頃?)

【没年】不詳(1205年頃?)

【時代】平安時代末期〜鎌倉時代初期

【氏族・血筋】藤原南家乙麻呂流二階堂氏

【在所・所領】?

【墓所】?

【由縁の場所】?


【家系・系譜】

父:工藤(白尾)行遠 

母:藤原季兼の娘(藤原季範の妹)

子:行村、行光




二階堂の姓の由来は、建久3年1192年に建立された永福寺に二階建ての仏堂があり、その側に邸宅を構えたことによる。




二階堂行政の生い立ち


家系は藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れで、父・工藤行遠は保延年間(1135 - 1141年)に遠江国の国司を殺害して尾張国に配流されたといわれ、そのときに熱田大宮司・藤原季範の妹との間に行政が生まれたといわれている。


藤原季範の父は尾張の役人で、行政の祖父らは遠江・駿河などである程度の勢力を持っていたと思われ、両者にも関係があったらしいといわれる。


その後鎌倉に参じ、母方が熱田大宮の司家であった縁により源頼朝に仕えたという。

行政は、元暦元年1184年に設立された公文所の奉行として三善康信と共に政治に登場する。


文治5年1189年の奥州合戦、翌年の頼朝入洛では、頼朝の側近にあって右筆として文書作成にあたったという。


建久元年1190年の頼朝の上洛では、費用など全体の雑事を調整する奉行人の筆頭に行政の名が見えるなど、この時期の「吾妻鏡」には、行政の名が多く登場、政所では別当・大江広元に次ぐ政所令として「主計允藤原朝臣行政」となっている。


建久4年1193年には五位に叙され民部大夫と呼ばれるようになり、同年に政所別当が複数制になり別当にも昇格した。




初期鎌倉政権を支えた

正治元年1199年頼朝の跡を継ぎ頼家が二代将軍になると、直接諸判断に関与することをやめさせ、十三人の御家人重臣が合議して決定することになり、その中に民部大夫・行政の名も入っており、次の将軍・実朝の代になるまで初期鎌倉政権を支えた実務的な官僚であった。


元久元年1204年、山城守(やましろのかみ)に任ぜられたが、翌年正月その任を辞したといわれる。


その後、子孫は二階堂氏を名乗り、子の二階堂行光の系統が政所執事をほぼ世襲していく。

もう一人の子の二階堂行村は、軍奉行として合戦記・論功行賞を取りまとめて、代々検非違使を世襲した。


二階堂行政、行光、行村、3人の親子が残した記録は、その後に編纂された鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」の編纂においても多く採用されていると見られている。





※記載の内容は、株式会社みやもとが歴史的資料をもとに独自の解釈も加えて表現しています。史実とは異なる解釈、見解も含まれておりますので、あらかじめご了承ください。



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