【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑤
- t-kojima12
- 6月6日
- 読了時間: 4分
2025年6月6日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
会員 安延 嶺央

先日、関東地方から沖縄に来られた方とお話していたら、「この前ウナギを捕ったんですけど、沖縄のオバアがウナギは神様だから食べたらダメ、飼ってもダメと言うんですよ。」と言われていました。
それを聞いた時、栃木県中心に関東に広く分布する、虚空蔵菩薩信仰の一形態だ、とピンと来ました。虚空蔵菩薩信仰では、ウナギや亀、沖縄の場合は久高島のイラブー(ウミヘビ)などの水の中にすむ生物が神のつかいだとされます。
那須氏の動向と南山王統との不思議な歴史的リンク
さて、琉球の南山王統です。南山王統は以下のとおり、5代約90年続いています。南山王統の本拠地があったのは、前期は沖縄本島南東部の島添大里、後期は西南部の島尻大里(糸満高嶺城)です。
・1337-1388 承察度 しょうさっと/ふうさと
・1388-1402 汪英紫 おうえいじ
・1403-1413 汪応祖 おうおうそ
・1413-1414 達勃期 たふち (弟の汪応祖を討って即位したが短期で滅びる)
・1415-1429 他魯毎 たるみ (汪応祖の長男)
中世の南九州の歴史は、日向国つまり宮崎県に伊豆を本拠地とする坂東武者の伊東氏と、薩摩の島津氏のせめぎあいですが、伊東氏が日向を支配するようになったのが1335年です。そして、その2年後の1337年から琉球南山が始まっています。更に、琉球南山王統は、驚くほど那須氏の動向と連動しています。
琉球で達勃期が弟の汪応祖を討って即位したのとちょうど同時期の1414年頃、栃木県では、那須資氏の死後、資之と資重が兄弟で対立して那須家が上那須氏と下那須氏に分裂しています。琉球では、1415年即位した南山最後の王、他魯毎の名前は「太郎前」であるとされていますが、「太郎」は那須家当主に受け継がれる名前です。この王が「太郎」を名乗っているのは、この争いがあったから、我こそが正統、という意味合いなのでしょう。
そして、1418年に栃木県では那須烏山城が築城され、那須資重の下那須氏の居城になっていますが、琉球南山の本拠地、糸満南山城の物見城は、「一名、《烏山》ト云フ」とされています。
他魯毎王の選択が示す、南山王統の内政と外交のゆらぎ
南山王統の最後は、他魯毎王が、尚巴志の持っていた金屏風と、水源である泉を交換したことで民心が離れた、とされています。沖縄ではこれは、物欲に溺れた愚かな王、という文脈で語られることが多いのですが、ここにも大きなヒントが潜んでいます。そもそも、「金屏風」が日本の歴史に初めて出てくるのは、15世紀初頭、室町幕府の将軍足利義満が中国の皇帝に贈った朝貢品が初めてです。
つまり、金屏風は当時最先端の外交ツールであって、尚巴志は室町幕府のバックアップを受けていた、そして、南山は下野の那須氏が分裂して混乱し、支援が減ったため、独自で交易をして財政的基盤を確保しようとして、内政と外交のバランスを崩して滅びた、ということを象徴的に表している話なのではないでしょうか。
また、金屏風と交換したという泉の発見に関する説話は、泉を見つけて日照りに苦しむ人々を救った犬が石になった、と関東地方に多い民話の類型です。
地名と城の配置に見る那須と南山の対応関係
地名で考えると、栃木県の那須烏山には大里という地名があり、大里地域の東側に高舘城があります。琉球でも、南城市も糸満も、大里の東側に城があり、糸満大里の城は高嶺城、備中那須氏の城は高越城です。
さらに、糸満高嶺の東側は与座(ユザ)ですが、大田原市には那須烏山と同じ名前の高舘城があって、このふたつは那須氏で明確に繋がっています。そして大田原高舘城の東側には、弓座(ユンザ)さんが集住しています。
すぐ近くには、恩田と喜連川が東西に隣り合っていますが、沖縄でも恩納と勝連は島の西側東側の関係です。
これらが全て、偶然であり得るのでしょうか?
次回は、南山王統について、さらに細かく見ていきたいと思います。
筆者プロフィール
安延 嶺央 (やすのぶ れお)
関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。
▼ 「note」 でも栃木県と沖縄県をテーマにした記事を掲載中です
Comentarios