【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑩
- t-kojima12
- 7月18日
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2025年7月18日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
会員 安延 嶺央

これまで、沖縄と坂東武者の繋がりについてお話してきましたが、10回目の今回は原点に立ち戻り、そもそも独自の歴史や文化を持ち、地理的にも本州や九州と離れた沖縄を、ヤマトと繋がるものとして論じて良いのかを改めて考えてみます。
文献が示す「喜界島まで」という境界線
まず、沖縄の文化ですが、鮮やかな色の琉装での舞踊、独特のリズム感の音楽といった、琉球文化といえばすぐ思い浮かぶものは、現代から数百年までの比較的新しい時代に発展したものが実は多いのです。
言語については、言語学的に検証すると、沖縄の方言は約千五百年前に本州の各方言と分岐し、九州に数百年留まった後、約千年前に南へ向かったと考えられるそうです。実際、沖縄方言には、ウージ(サトウキビ、九州ではオーギ)、アコークロー(夕暮れ時)等、五島列島を中心に、九州と共通の語彙が多くあります。
さて、そこで歴史です。ちょうど沖縄方言が九州から南下したと考えられる、平安時代後期から鎌倉時代は、鹿児島県の喜界島までが当時の日本の領域だと言われているようです。
その根拠となりそうなものをいくつか挙げてみます。
① 吾妻鏡
「彼の嶋の境は日域太だ其の故実を測り難し」
1188年源頼朝が鎮西奉行に任じた天野遠景が喜界島征伐を行った時に摂政九条兼実が反対して述べた言で、喜界島は日本の勢力圏かも疑わしいと言っています。
② 曾我物語
「君、三度聞こし召されて後は、箱根御参詣ありしに、左の御足にては、外浜を踏み、右の御足にては、鬼界島を踏み給ふ」
源頼朝の挙兵直前に、安達盛長が、源頼朝が左足で青森県の外ヶ浜、右足で喜界島を踏んでいる、つまり日本全土を支配している夢を見たということです。
③ 平家物語(長門本)
「きかいは十二の島なれば、くち五島は日本へ随へり、おく七しまはいまだ我朝に従はずといへり、白石、あこしき、くろ島、いわうが島、あせ納、あ世波、やくの島とて、ゑらぶ、おきなは、きかいが島といへり」」
鬼界は十二の島から成っていて、端の五つの島は日本に従っている(が、沖縄を含む他の島々はそうではない)そうです。
地理・気候・政治的事情から見る「境界」
これらを見ると、たしかに喜界島までがかろうじて日本の域内、沖縄はその外と言えそうですが、果たしてそうなのでしょうか?
渡航のための自然条件を考えると、与那国島と台湾の間から久米島近海を通って流れてきた黒潮は、奄美大島の北で東シナ海から太平洋に流れていて、喜界島は黒潮の南にあります。つまり、本州、九州から喜界島へは、幅数十kmから時に百kmの激流を渡らなくては行けないのです。
逆に言えば、喜界島まで行くことができれば、そこから沖縄本島までは比較的容易に、島伝いに渡っていけるとも言えます。となると、喜界島までが勢力圏というのは大変不思議な線引きなのです。
また、当時の国境は、現代の国際社会のように厳密なものではありません。従ってここは、喜界島までが日本の域内というよりは、南方交易利権を押さえるために喜界島まではしっかり支配下に置いておく(上記②の源頼朝が喜界島を踏んでいる)ということだと考えたほうが良さそうです。
そこから先の沖縄については、現代的に言えば直接統治するにはコストがかかりすぎるので民間の活力に任せる、ということだったのではないでしょうか。実際、この時代の沖縄の遺跡から発掘される骨は中世日本人の特徴を持っているそうです。
当時政権を握っていたのは東国の武士である背景を考えると、五島列島や長崎周辺の海の民と坂東武者の南下がこの時代にあったものと考えるのが、自然であるように思います。
史料の性格を踏まえる
次に、文書の性質です。上に挙げたいくつかの文書は、たしかに喜界島までがかろうじて日本の域内であるかのように読めます。しかしこれらは、作者不明の『曾我物語』以外は、公家によるもので、しかも喜界島が遠いことを強調する箇所なのです。『平家物語』の場合は、信濃前司行長の原作を琵琶法師が文学的にアレンジしてもいます。
例えば現代でも、関東にお住まいの方が九州や沖縄を身近に感じるか?と聞かれたら、その方の職業や家族・親戚関係、旅行が趣味であるか、などなどの個人的背景により人それぞれ答えは全く違ってくると思います。
中世は商人的な活動をする武士が列島各地を行き交っていたそうですが、そのような人たちと、京都にいる公家の南西諸島への感覚は全く違っていたのではないでしょうか。
また、上に挙げた『吾妻鏡』は、摂政九条兼実が、遠いことを理由に喜界島征伐反対する内容、『平家物語』は、俊寛が遠くに流されたことを文学的に語り、悲劇的な効果を生み出している箇所です。
大事なことについて自分の意見を強く主張する場面や、文学作品の中で盛り上がりを生み出そうと場合には、やや大袈裟な表現をするのは現代でもよくあることですが、上に挙げた喜界島についての言及も、そういった用例であることにも留意が必要です。
そうなると、沖縄の遺跡から出土する骨が中世日本人のものであることや、沖縄の方言の状況が示すとおり、平安時代末期から鎌倉時代の沖縄へは日本の影響が強く及んでいたと考えられそうです。『曾我物語』にあるよう、黒潮を超えて喜界島まではしっかり押さえた上で、そこから先の沖縄へも多くの商人的な武士が出入りして活発な交易が行われていた実態を考えれば、この時代の沖縄はヤマトに繋がるものとして論じることが適切であるように思われます。次回もこのあたりについてもう少し深く掘り下げてみたいと思います。
筆者プロフィール
安延 嶺央 (やすのぶ れお)
関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。
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