【水野先生コラム】藤原秀郷流の末裔達。
- t-kojima12
- 7月18日
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2025年7月18日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
顧問 水野 拓昌

田沼意次 意知父子VS佐野政言
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」の重要人物として登場している田沼意次(おきつぐ)、意知(おきとも)父子と「世直し大明神」と呼ばれる佐野政言(まさこと)は、いずれも佐野氏の流れをくむ家柄。すなわち藤原秀郷の子孫です。
佐野氏の分家で下野国安蘇郡田沼村(栃木県佐野市)を拠点としたのが田沼氏。鎌倉時代に田沼氏として独立、鎌倉幕府の御家人として活動していましたが、やがて苗字の地・田沼を離れ、所領は関東各地を転々とするようになります。新田義貞に従った時期もあり、戦国時代には上杉氏や武田氏の配下に。江戸時代には紀州藩に仕え、それほど高くない地位の藩士だったようです。
田沼意次の父・意行は足軽の子から徳川吉宗が藩主となる前から側近として仕え、吉宗が将軍に就くと、旗本として幕臣に連なります。紀州から江戸へ転勤となり、幕府の小役人のような立場に収まったというところでしょうか。
跡を継いだ意次は、9代将軍・徳川家重、10代・家治に側近として仕えて頭角を現し、昇進を重ねて将軍側近の側用人(そばようにん)、幕府重役の老中へと出世。父・意行の遺領を受け継いだ時は600石でしたが、最終的に5万7000石の遠江・相良藩(静岡県牧之原市)の藩主、すなわち大名に上り詰めています。
意次は賄賂政治家の代表格として、少し前までは否定的に捉えられていた面がありました。しかし、最近では、商業を重視する経済政策は時代の流れに合った先進性が評価されています。一方で天明の大飢饉や米価高騰で適切な対応ができなかったことや、田沼政治のおかげで儲かる人も目立ったので、その波に乗れない人からはひどく嫌悪された面もあります。従来の悪評は割り引いてみるべきですが、功罪あるわけです。
武士の中でも身分の差が固定化されていた時代に、それを打破する革新的な出世を果たす田沼意次が経済格差社会を作り出すというのも皮肉です。
意次の嫡男・田沼意知は30代で若年寄となり、若くして重要なポストを得たわけですが、1784年(天明4年)3月24日、500石の旗本・佐野政言に斬りつけられ、この傷が元で死去。36歳でした。
佐野政言の田沼意知刃傷事件は、佐野氏の系図を田沼意知に貸したが、返却されなかったとか、田沼政治に対する義憤だとか、動機が書かれた7カ条や17カ条の口上書があったとする史料がありますが、作者不明の江戸時代後期の書物で、その根拠が気になるところです。あまり信用できるとも思えませんが……。
ただ、事件の後、なぜか高騰していた米価が下がり、佐野政言は「世直し大明神」「佐野大明神」と呼ばれます。
この佐野政言(通称・善左衛門)は佐野氏出身ですが、分家であり、戦国時代には三河に拠点を持ち、徳川家康の祖父・松平清康に仕えていた佐野与八郎(正安)が佐野政言の祖先となります。
佐野氏の本家は戦国時代末期、豊臣秀吉側近・富田一白(長家)の五男から養子に入った佐野信吉が継いでいきますが、藤原秀郷の血統からは離れています。政言につながる佐野氏分家も長い歴史の中で、どこでどうなっているのか……という気はします。それだけに系図を大切にしていた可能性はあります。
佐野政言は、我が世の春を謳歌する田沼意知を仰ぎ見る立場だったとしても、秀郷流の名門という意識を持ち続けていたのかもしれません。







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