【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑫
- t-kojima12
- 8月8日
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2025年8月8日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
会員 安延 嶺央

平安時代に登場する喜界島
平安時代中期、沖縄でいうと舜天王統より前、実在不明の天孫氏と言われる王統があったとされる頃、藤原明衡(989〜1066)が当時の職業、世相などを取りあげて書いた『新猿楽記』にも喜界島が登場します。
『新猿楽記』の中では、八郎真人という商人が、妻子も顧みず商売に精を出し、『東は俘囚の地、西は貴賀島』まで行き、その交易品としては、南洋のアカギや蘇芳、夜光貝、琉球の『おもろさうし』にも出てくる北方の鷲の羽などなど多くのものがあったとされています。北東北、北海道から喜界島まで列島を往来して商売をしていたとは驚きですね。
喜界島の役割と当時の交易
問題は、11世紀半ばという時期です。平氏や源氏、そして琉球の舜天王統の100年以上前から活発な交易がなされていたということになるからです。また、こういった読み物に描かれるほど喜界島はハッキリと認識されていたことにもなるし、喜界島まで行くという事は、それより南の沖縄との交流も当然あることになります。喜界島自体は、隆起石灰岩、つまり古い珊瑚礁が岩となり隆起してできた島なので、喜界島自体が何らかの特産物を生み出すわけではなく、あくまでも交易の中継点であるからです。
たしかに喜界島の遺跡を見ると、城久遺跡群はこの時代から栄えていた様子です。喜界島には、現代で言えば物流センターのようなものがあり、船や商人が活発に出入りして交易で賑わい、当時からそれが全国的によく知られていたのでしょう。
公家の認識と文学的誇張
一方で、1188年、天野遠景の貴海島征伐に際しては、摂政九条兼実が、喜界島は遠方で、日域かどうかも疑わしいと反対しています。しかし、九条兼実は、別の場面で次のような発言をしています。後白河法皇が、当時交易の盛んだった宋、つまり中国の人と会見することについて、「天魔の所為」と述べています。皇族が外国人と会う事を、天魔のしわざであるというのです。
現代とは全く異なる時代とはいえ、あまりに保守的で世界が狭いように思われますが、平安の貴族や朝廷の認識はこのようなものだったのでしょう。その中で、喜界島は日域か疑わしいという記述があったとしてもそれが当時の一般の認識とは思えませんし、むしろ、『新猿楽記』に登場する八郎真人の、蝦夷から喜界島まで往来する逞しい姿のほうが時代の実態であるように思います。そして、商人がこのように活動できたということは、喜界島まで往来する定期便のようなものがあり、海の民が活発に活動していたということです。鎌倉時代以降の坂東武者たちも、その交易ルートに乗る形で、南方との関わりを持ったのではないでしょうか。
また、そうであれば、平家物語の、俊寛が流されたキカイ島(喜界島または硫黄島?)が絶海の孤島で、「おぼろげにては船も通はず、島には人稀なりけり」であったという描写はかなりオーバーな文学的表現ということになります。平家物語のキカイ島は、硫黄島説と喜界島説がありますが、いずれにしても、硫黄の産地、または物流センターであって、人の通わぬ島ではないからです。
記録と実態のズレ
『平家物語』は信濃前司行長の作であるとも言われますが、信濃前司行長を支援したのが天台座主の慈円、つまり九条兼実の弟です。そしてまた、信濃前司行長の父は九条兼実に仕える家人でもあり、『平家物語』は九条兼実の日記を参考にしたとも言われます。このような公家の人たちの南方に対する認識は、当時の実態を必ずしも正確に反映しているとは到底思えず、これらの記述を鵜呑みにするのは大変危険であるように思えるのです。
歴史学者の網野善彦氏の著書に面白い話がありました。高校で講演をした際、894年に菅原道真が遣唐使を廃止した理由の一つとして航海の危険性が挙げられているが、卑弥呼の邪馬台国はじめ古代から倭人は大陸と盛んに交流している。ということは、600年~700年で航海術は衰退してしまったのか?と高校生に質問されて答えに窮したというのです。
そして改めてよく検証したところ、航海の危険性などは表向きの官僚文書であって、9世紀後半には民間による交流が活発になっており、官による文化交流を行わなくても民間の活力で十分にまかなえるから廃止したのが実際のところではないかとの結論に至ったという事です。
南方との交易についても同様で、京の都の公家が文書に書くことと、逞しい商人や武士の実際の活動は異なるように思います。そのような中で、喜界島がしばしばこの時代の史料に登場するのであれば、喜界島までが当時の日本領と限定的に考えるのではなく、喜界島までを確実におさえた上で、そこから先の交易は公的な文書に残りにくい形で行われていたと考えた方が良さそうです。
このような理由から、沖縄の中に坂東武者の痕跡を探ることは意味のあることだと考えています。次回からは再び、琉球の各王統について、考えていきたいと思います。
筆者プロフィール
安延 嶺央 (やすのぶ れお)
関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。
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