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【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑭

2025年8月29日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

会員 安延 嶺央


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足利兄弟と上杉家のつながり


室町幕府を開いた足利尊氏と、尊氏を補佐し、「両将軍」とまで言われた弟の足利直義は、上杉氏出身の女性、上杉清子を母としてそれぞれ1305年、1307年に誕生しています。上杉氏と言えば、戦国時代の上杉謙信や上杉景勝が有名ですが、江戸時代には米沢藩主となり、上杉鷹山はよく知られています。

 

 実は以前少しお話ししたとおり、この米沢と琉球には僅かながら縁があるようなのです。例えば夜空の星、「ヒアデス星団」のことを山形県では「うまのつらぼし」、沖縄では「うまぬちらー」と呼びます。もしこれが、航海の際に目印となる星として、日本海側の交易ルートに沿って伝わったのであれば、琉球と山形の間の各地に見られないことの説明がつきません。



琉球の地名と東日本のかすかな縁


足利直義は1352年、高師直の死のちょうど1年後に、おそらく兄尊氏の意向により死に追いやられていますが、観応の擾乱以前から九州で力をつけていた足利直冬はその後10年ほど幕府に抵抗しており、その時の足利直冬派には、少弐氏、日向伊東氏、宗氏などなどがいましまた、足利直義や南朝と関連していると思われる琉球の察度王統の創始者察度王は宜野湾市の生まれであるといわれます。宜野湾は現代では「ぎのわん」と読みますが、琉球方言では「じのん」と発音しており、宜野湾の周囲には、普天間(ふてぃま)、松川、野嵩(ぬだき)といった地名があります。「宜野湾=じのん」は福島県、山形県に見られる地名「信夫(しのぶ)」ではないでしょうか?また、宜野湾市の松川の地名は米沢と共通しており、野嵩(野滝)は栃木県に多い姓となっています。

 

 上杉市の家臣には「千坂氏」がおり、千坂氏は那須氏と縁戚関係にあるとされ、山形県米沢市の上記琉球との共通地名がある地域にあるお寺には、那須与一供養塔があります。足利兄弟の頃から上杉謙信、景勝に至るまでには上杉家は4家に分かれたり、長尾氏に名跡を譲ったり、お家騒動がおきたり紆余曲折を経ていますが、その間千坂氏はずっと上杉氏に仕えており、那須氏と千坂氏の繋がりは足利兄弟より前の時点のことです。

 

 足利尊氏、直義兄弟と同時代の上杉家には上杉憲顕という人がいて、足利兄弟の従兄弟でもありますが、足利兄弟が対立関係となった観応の擾乱の際には、上杉憲顕をはじめとする上杉家の人たちは殆どが直義の側についています。

 

 つまり、観応の擾乱と時を同じくして琉球に成立した察度王統の本拠地宜野湾市と山形県・栃木県のかすかな縁は、足利直義―上杉氏―千坂氏―那須氏の繋がりということではないでしょうか?沖縄県大宜味村には、「喜如嘉(現代の発音は「きじょか」、琉球方言では「きじゃは/ちじゅか」)」という地名がありますが、この喜如嘉が千坂なのかもしれない、とさえ思います。大宜味村の喜如嘉のすぐ近くには「一名代」と書いて「ティンナス」と読む地名もあります。現代でも沖縄方言では「ひとつ」を「ティーチ」と言いますが、ティンナスつまり「一ナス(那須)」と言えば那須一文字の家紋が思い浮かぶところです。



「ようどれ」の意味をめぐって


話は変わって、琉球王家の墓所の名称についてお話ししたいと思います。沖縄県浦添市には「浦添ようどれ」があり、英祖王統と第二尚氏の尚寧王のお墓とされていますが、英祖王では年代に矛盾が生じ、察度王統のものではないかという説もあります。また、南城市にある第一尚氏のお墓も、「佐敷ようどれ」と言われています。


 この「ようどれ(琉球方言での発音「ゆーどぅり」)」は「沖縄学の父」と言われる伊波普猷氏以来「夕凪」の意味だとされていますが果たしてそうなのでしょうか?内部の石棺などには極楽をイメージした意匠が施されておりとても宗教的なのですが、その名称が自然現象である夕凪となるでしょうか?また、沖縄のような高温多湿で陽射しの強い地域では夕方は夜になるまで大変な蒸し暑さが続きます。本州では特に現代は昼はかなりの高温になっても夕方には爽やかな風が吹きますが、沖縄はその点少し環境が違うのです。素朴な疑問として、そのような気候風土に暮らす人たちが果たして、「夕凪=平和・平穏」という感覚を持つのでしょうか?


 詳しくは別の機会にご説明しますが、「ようどれ(ゆーどぅり)」は源頼朝や足利氏と繋がりの深い伊東氏に関係する地域である愛知県の奥三河地域に伝わる神楽に残っている、「浄土入り」ではないでしょうか。



足利氏と琉球の共時性


仮に、1337年創始された琉球南山王統は足利尊氏・直義の二頭体制が順調だった頃に足利直義の意向を受けて始まった足利政権の南方交易利権で、伊東氏も当初はここに参画しており、1350年からはじまった察度王統は観応の擾乱前後、足利直義・直冬による南朝方への利益供与で伊東氏はこちらに鞍替えし、そして、伊東氏は足利氏の分裂収束後は南山王統ではなく第一尚氏に与したと考えると、足利氏と伊東氏の関係や、琉球での「ようどれ」が使用される王統とも矛盾しないように思います。

 

 このことからも、私は浦添ようどれが実は察度王のお墓であるという説には賛成ですし、琉球史の鍵となる人物は足利尊氏、直義、直冬だと考えています。古今東西、人類の歴史は民族移動、交易、文化や情報の伝播の積み重ねですが、琉球のような東アジアの重要地域であればなおさら、隣接地域との共時性には着目すべきです。琉球の歴史を見ていくと、鎌倉幕府、南北朝、室町幕府の中で節目となる出来事と完全に一致しているのです。そしてまた、この時代は栃木県をはじめとする東日本の武士たちが列島の主導権を握っていた時代なので、現代の沖縄県と関東地方をよく見ると共通点があることもある意味当然なのかもしれません。次回も足利将軍家と琉球の関係を考察していきます。引き続きよろしくお願いいたします。




筆者プロフィール

安延 嶺央 (やすのぶ れお)


関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。


▼ 「note」 でも栃木県と沖縄県をテーマにした記事を掲載中です






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