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【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑮

2025年9月5日

栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会

会員 安延 嶺央


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嘉吉附庸説と足利義教の登場


1609年に、琉球は薩摩の島津氏に侵攻され服属を余儀なくされましたが、それを正当化する根拠として、嘉吉元年(1441年)に島津忠国が足利義教から、大覚寺義昭追討の賞として琉球を賜わったという、いわゆる嘉吉附庸説が唱えられたことがありました。しかし、これは史実ではないと現在では否定されています。


 では、第6代将軍足利義教は琉球とは全く無関係なのでしょうか?足利義教と言えば俗に「くじ引き将軍」などと呼ばれますが、恐怖政治ともいえるほどのリーダーシップを発揮したそうです。足利将軍家は初代が尊氏、2代目義詮、3代目義満、4代目義持と続き、5代目が短期間で亡くなってしまった義量、6代目が1429年に将軍就任した義教となりますが、その義教の将軍就任直後に琉球では尚巴志が南山王他魯毎を討ち、いわゆる三山統一を果たしています。



尚巴志の三山統一と義教将軍就任


三山統一は歴史教科書にも登場しますが、島の中にいくつかの王国が併存していた琉球が尚巴志によって統一され、第一尚氏と呼ばれる1つの王国にまとまったことを指します。これは南北朝時代の終焉や、後南朝つまり南朝の残党も足利義教に討たれたことと関係はないのでしょうか?

 

 まず、足利将軍家関係と、琉球に関係のあると思われる那須氏の動向を簡潔な年表形式にしてみます。

 

【足利将軍家関係】

 1394年 足利義教誕生

 1428年 足利義持死去、くじ引きが行われ後継者に決定、還俗。

 1429年3月 足利義教将軍就任

 ※同年、琉球南山滅亡、三山統一。1428年の将軍就任決定、1429年春の将軍就任なら1429年中に琉球へ情報伝達は可能。

 

【那須氏関係】

 1414年  那須氏分裂(上那須氏/下那須氏)

    ※同年、琉球南山でも同様の御家騒動起きる。

 1416年  上杉禅秀の乱(鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉禅秀の対立)

  →下那須氏は足利持氏側、上那須氏は上杉禅秀側

 1418年 下那須氏の那須資重が那須烏山城を築く

    ※琉球の糸満南山城調査報告書に「一名烏山とも云ふ」と記載あり



那須氏と琉球南山の関わり


鎌倉公方足利持氏の動向に注目したいと思います。上杉禅秀の乱では足利持氏が勝者となりますが、乱後、足利持氏は上杉禅秀側を追討し、幕府の意向に従わない独自の行動が増えます。そして、1429年に足利義教が第6代将軍に就任すると、足利持氏は反発し、改元後も旧元号を用いるなど義教率いる幕府に不服従の姿勢を見せます。その後、永享の乱(1438年~1439年)後、足利持氏は将軍足利義教の意向で自害に追い込まれますが、足利義教の側から見ると足利持氏の動向は悩みの種だったことでしょう。

 

 つまり、大前提として、『6代将軍足利義教⇔足利持氏』という対立関係があった上で、下記の事実があります。

 ・下那須氏は足利持氏と密接

 ・琉球南山城の別名は「烏山」

 ・那須烏山城は下那須氏の城

 ・足利義教が将軍となった直後、尚巴志が琉球南山を滅ぼし三山統一

 

 これらの事実と、那須烏山方面と琉球南山城周辺に共通地名が多いことを併せて考えると、後期の琉球南山に主体的に関与したのは下那須氏、そのバックにいたのは鎌倉公方の足利持氏、尚巴志は足利義教側、琉球南山を滅ぼしたのは足利持氏の資金源を絶つための将軍義教の意向であった、という状況に見えます。



義教の意向と琉球統一の意味


琉球を直接的に支配し島津氏に賜ったという『嘉吉附庸説』は事実ではないのでしょうが、琉球の統一には、やはり足利義教の強烈なリーダーシップが関係しているように思います。琉球は直接的に支配するのではなくあえて独立国の体裁を取り、しかし実態としては時の権力者の意向が強く働いています。鎌倉時代から室町時代にかけては、坂東武者たちの時代だったのですから、関東地方の動向と琉球は深く関係しているのは自然なことだと思います。




筆者プロフィール

安延 嶺央 (やすのぶ れお)


関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。


▼ 「note」 でも栃木県と沖縄県をテーマにした記事を掲載中です






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