【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑯
- t-kojima12
- 9月12日
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2025年9月12日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
会員 安延 嶺央

第一尚氏から第二尚氏へ ― 不思議な王統交代
琉球の歴史上、不思議なことがあります。1429年に尚巴志により三山統一がなされ、琉球は統一国家となったとされています。この尚氏による琉球王国を第一尚氏と呼びます。しかし、第一尚氏王統は約40年で終わり、同姓だが血縁関係はない尚氏による王統にとって代わられるのです。この尚氏を第二尚氏と呼び、1469年から1879年までの400年以上にわたって続きました。
1469年に琉球で、第一尚氏の第七代尚徳王が二十代の若さで死去した後、重臣たちが後継者を決める席で、安里大親が突然、「虎の子は虎、悪王の子や悪王、物呉ゆすど我御主、内間御鎖ど我御主」と謡い始め、一同がこれに「ヲーサーレー」と唱和して、第一尚氏から第二尚氏に王統が移行したとされています。血縁はなくとも姓が同じであることについて、一説では中国との外交の都合上とも言いますが大変不思議な話です。
安里大親の謎と足利とのつながり?
今回はこの、第一尚氏から第二尚氏への移行について考えてみます。まず、神がかりして突然歌い始めたという安里大親について、「安里(あさと)」は現代でも沖縄の地名や姓によく見られます。同じ南西諸島の奄美地方では「朝戸」と書きます。この朝戸(安里)の姓が奄美・沖縄以外でどこに見られるかというと、栃木県足利市なのです。重臣の一人が神がかりをして謡い始めた、と物語か神話のように記されていますが、これは足利将軍家の意向を伝えた、というのが実相ではないでしょうか?
第一尚氏最後の王尚徳王の最期についてはよくわかっておらず、病死であるとも、入水や自害であるとも言われています。また、第一尚氏から第二尚氏への移行に際して、前政権の人たちを排除や殺害するような行為があったかどうかも不明であるとされており、琉球史の上でも大変謎が多いところです。
応仁の乱と足利義視の動向
琉球でこの不思議なクーデターが起きたのは1469年ですが、この時本州では、応仁の乱が起きていました。応仁の乱は複雑で、同じ氏族が東西に分かれていたりする上、乱の歴史的評価も学問上諸説ある状態で、全体像を描くことは大変難しいのですが、関係のありそうなところを簡潔に見ていきたいと思います。
応仁の乱は、室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いや足利将軍家の後継者問題により1467年に勃発し、東軍と西軍に分かれて幕府の主導権を巡る争いが十年以上も続きます。この争いの中で、西軍から東軍、東軍から西軍へと移った有力者も多数おり、大変複雑な戦乱ですが、中で琉球との関連が気になるのは足利義視の動向です。
足利義視は1439年に足利義教の子として生まれ、応仁の乱の時の将軍足利義政と異母兄弟の関係になります。応仁の乱勃発時、足利義視は28歳です。足利義視は将軍足利義政の後継者という位置づけだったので当初は東軍に属していましたが、途中から西軍に移っています。
琉球政変と幕府権力の影
以前、末期の琉球南山王国は鎌倉公方足利持氏と繋がりがあり、足利義教の将軍就任直後に琉球南山王国が尚巴志に滅ぼされたのは足利義教の意向を受けてのことではないか?と書いたことがあります。その足利持氏の子で古河公方の足利成氏は、1468年に西軍と同盟を結んでいます。そして同じ年の11月には、当初東軍に属していた足利義視も西軍に加わっています。
つまり、将軍足利義政は東軍側である中、琉球南山王国との繋がりで琉球交易の旨みを知っていたであろう足利持氏の子と、足利将軍家の主要人物の一人が1468年の年末までに西軍と結び、その直後、1469年に琉球で第一尚氏から第二尚氏への移行が起きている、という事になります。
この状況から素直に考えれば、第一尚氏は足利将軍家と密接に関係していたものの、そのコネクションを持ったまま足利義視が西軍側に移ってしまったため、それならば、と将軍足利義政が琉球の王統を自身の側にすげ替えたということではないでしょうか。実際、足利義視の行動に対して、足利義政は朝廷に働きかけて官位を剥奪、朝敵の認定などをしており、1469年(琉球での政権移行と同年)には追討のため、四国・九州の諸大名に軍を率いて上京するよう命じてもいます。
琉球での第一尚氏から第二尚氏への移行は、足利義視や足利成氏、西軍の資金源を絶ち、自分たちの側に付けかえようという将軍足利義政やその周辺による工作の一環であったように思えます。官位を剝奪し、朝敵と認定した上、武力による攻撃を行うのならば、同時に経済封鎖を行うのもごく自然なことです。
こう考えるからこそ、琉球での安里大親(安里=朝戸=栃木県足利市)の行動や、第一尚氏と第二尚氏が血縁は無いにも関わらず同姓であること、まだ20代の若さだった尚徳王の死の真相がわからないこと、クーデターによる政権移行に伴う残虐な行為の有無すら不明であることなど、数々の不思議な点についても理解できるように思います。
筆者プロフィール
安延 嶺央 (やすのぶ れお)
関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。
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