【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑰
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2025年9月26日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
会員 安延 嶺央

栃木から琉球へ ― 武家の系譜が描くもう一つの歴史像
今回は、琉球史を考える上で重要だと思われる那須氏と日向伊東氏について概観してみたいと思います。
まず、那須氏は藤原道長の息子の末裔を称していて、元々は「須藤」姓を名乗っていたそうです。「那須地方の藤原氏=須藤」、ということでしょうか。その後、那須与一の父の代から那須氏を称するようになったそうです。那須与一といえば平家物語の名場面があまりに有名ですが、実は多くいた兄弟はほとんど平家方についていて、那須与一の戦功で辛うじて家名を繋げたのが実際のところです。
その後、室町時代、戦国時代の小田原攻めや関ヶ原などを経て、江戸時代には改易にあったりもしましたがその度乗り越えて、明治時代まで家名を繋いでいます。
その那須氏は1414年頃分裂し、その状況は約100年続きました。那須資氏の死後、子の資之と資重が対立し、資之が上那須氏、資重が下那須氏となり、それぞれの根拠地は、上那須氏は栃木県大田原市、下那須氏は那須烏山市でした。
この那須氏分裂と全く同時期に琉球でも全く同じことが起きていた上に、6代将軍足利義教⇔鎌倉公方足利持氏という対立の構図と琉球の歴史に関連しそうな動きがみられるのは前々回お話しした通りです。
尚円王(金丸)と大田原・那須氏の縁
1455年には享徳の乱が起きると、「堀越公方足利政知⇔古河公方足利成氏」という対立の構図の中で、上那須氏は堀越公方、下那須氏は古河公方の側についています。そして応仁の乱では、1468年、古河公方足利成氏は西軍と同盟を結び、同年11月には、足利義視が西軍に加わっていますが、この翌年、琉球では、第二尚氏への移行が起きています。享徳の乱の時の堀越公方足利政知は足利義教の子、足利義政の異母兄弟で、将軍足利義政と関係良好です。
複雑なので整理すると、下記のようになっています。
足利義視―足利成氏―下那須氏(那須烏山)
足利義政―足利政知―上那須氏(大田原)
ここで琉球を見ると、1469年に恐らく将軍足利義政の意向を受けて王となった尚円王は童名が思徳金、即位以前は金丸、王となって尚円と呼ばれますが、大田原市に金丸という地名があり、上那須氏に崇敬される大田原市の那須神社は金丸八幡宮と呼ばれ、金丸氏は那須氏の分家筋で当時上那須氏に従っていたそうです。
ここと尚円王(金丸)には関係があるように思います。勇み足を覚悟で言えば、第二尚氏は那須氏分流の金丸氏であった可能性すらあるかもしれません。
明治時代に第二尚氏が辺戸にある舜天王統の義本王のお墓を整備し、義本王墓は辺戸玉陵(玉陵(たまうどぅん=第二尚氏のお墓))とも呼ばれています。また、沖縄本島北部では尚円王は舜天王統の末裔だという伝承もあります。舜天王統がナスの御嶽の名や紋、栃木県那須地方との共通地名が示すとおり那須氏であるなら、これらの事象も理解できるように思います。
栃木・琉球を結ぶ伊東氏の系譜と伝承
続いて、日向伊東氏です。日向伊東氏は伊東祐時(1185〜1252年)に始まりますが、その妻の母親は伊東祐親の娘です。伊東祐親と言えば、伊豆流人時代の源頼朝の監視役をしていたものの、娘が源頼朝と通じて男児を産み、その子は命を奪われるという話がありますが、琉球にも源為朝と大里按司の娘という形でこれと相似形の話があります。
また、伊東祐時は愛知県の奥三河地方に伊東氏の一族を呼び寄せたと言いますが、この奥三河地方に「浄土入り」があり、琉球の王墓は「ようどれ(琉球発音:ゆーどぅり)」(浄土入り)です。
室町時代、日向伊東氏は有名な薩摩の島津氏とせめぎ合っていました。その後流れをごく簡単に言えば、日向伊東氏は島津氏に一旦は敗北し所領を失いますが、豊臣秀吉に仕官して山崎の戦いに従軍したり、関ヶ原では東軍についたりと巧みに立ち回って所領回復に成功しました。それが、伊東祐兵(1559〜1600年) 、伊東祐慶(1589〜1636年)親子の時ですが、伊東祐慶は室(妻)を大田原氏から迎えています。
琉球交易が紡いだ伊東氏と下野武士のつながり
大田原氏といえば現代でいう栃木県大田原市を本拠とする一族で、那須氏に代々仕えています。そして本拠の大田原市には、琉球の尚円王(金丸)と関係のあるように思われる金丸氏の根拠地であり、金丸八幡などもあります。
伊東祐慶が大田原氏から室を迎えた経緯はまだ調べきれていませんが、これほど時代が下っても、日向伊東氏には那須氏や大田原氏、下野国と何らかの繋がりがあったのは確かだと思われます。那須氏・大田原氏と伊東氏を結びつけるものは琉球交易だと考えたくもなる不思議な話です。
また、大田原氏はこの少し前に、豊臣秀吉の小田原征伐の時、参戦が遅れてしまった那須氏の穴を埋めるような活躍をして、那須氏は大田原氏のお陰で家名を繋げたようなものだった、という事実もあります。
まとめると、舜天王統―那須氏―琉球南山王統―源頼朝―伊東氏―奥三河と、第二尚氏―金丸氏―栃木県大田原市―大田原氏―那須氏―日向伊東氏⇔島津氏、で全て互いに関連がありそうです。平安時代末期から鎌倉時代、室町時代と、坂東武者たちが活躍した時代が過ぎ、戦国時代から安土桃山時代となってもなお、琉球、日向伊東氏、那須氏は関連性を保っているように見えるのも大変興味深いところです。
筆者プロフィール
安延 嶺央 (やすのぶ れお)
関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。
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