【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑱
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更新日:10月17日
2025年10月3日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
会員 安延 嶺央

室町幕府の衰退と戦国時代の到来
これまで、平安時代末期から室町時代まで、坂東武者たちが日本列島を掌握し活躍していた時代における日本史と琉球史の関連について見てきましたが、その時代にも終わりがやってきます。室町幕府は足利氏により始まりましたが、享徳の乱や応仁の乱など戦乱が相次ぐ中で徐々に幕府の権威は喪われ、戦国時代となっていきます。
その中で、織田信長、豊臣秀吉が特に有力となり、最終的には徳川家康が江戸幕府を開くことはよく知られている通りですが、新しい時代を創り出していったいわゆる三英傑は中部地方の出身で、坂東武者ではありません。徳川氏は武家の棟梁としての正当性のため、系図上新田源氏を称していますが、それは事実とは異なることでしょう。
江戸幕府の成立と近世国家の形成
江戸幕府は250年以上も続き、江戸を中心とするその統治機構は大変よくできたものでした。儒教による統治、参勤交代、街道の整備、新田開発と河川の治水、政治の中心としての江戸と商都大阪…などなど多岐にわたりますが、ここで日本の姿は大きく変わり、現代に至る国の形ができています。坂東武者の活躍した時代について考えることは、江戸幕府成立以前の感覚で考えることです。
例えば関東地方にしても現代では利根川は千葉県の銚子へと流れ、北関東と南関東の境のようになっていますが、利根川の流路がこのように改められたのも江戸時代初期のことです。栃木県から交通機関で京都に行くとなると、東京を経由して東海道新幹線で行くのが一般的ですが、江戸時代以前は東山道で下野国つまり栃木県こそが京と直結しており、だからこそ栃木県と西国、琉球までもが繋がってくるのです。現代の日本人の常識を離れ、中世以前の人の感覚で列島を眺めた上で歴史を考えるのはとても楽しいことだと思います。
そしてまた、沖縄も江戸幕府以前の日本を色濃く残した地域です。沖縄について論じる時、一般的に「琉球/ヤマト」という分け方をして、比較したり、共通点や相違点を論じたりということがよく行われます。もちろん、文化、政治史、住民、風土などなどについて、その区分が妥当であることに異論はありませんが、これが全てではないとも思います。「琉球・室町時代以前のヤマト/江戸時代以降のヤマト」や「琉球・九州/本州・四国」が適切なものもあります。この観点から、室町以前のヤマトを深く知るには、坂東武者の活躍した関東地方について知る必要があるのです。
琉球の衰退と外部環境の変化
15世紀は交易で栄えていた琉球も、16世紀には、中国など周辺諸国の状況、日本が戦国時代になったこと、アジアでの貿易にヨーロッパ人が関与するようになったことなど、外部環境の変化から次第に国力が衰え、やがて薩摩の侵攻を受け服属することとなってしまいます。現代では沖縄と言えば、海の美しい南の島ですが、近現代の歴史は明るい話ばかりではなかったのも事実です。その起点と一般的に考えられるのが、1609年春に行われた琉球侵攻です。
しかし、その少し前から、因幡国つまり鳥取県の武将亀井玆矩が豊臣秀吉に恩賞として琉球を賜りたいと申し出て「亀井琉球守」と書いた扇を授かったことや、1588年には天下一統を目前にした豊臣秀吉が琉球征伐の意向を薩摩の島津義弘に伝えそれが琉球の尚永王へ伝えられたこと、京の聚楽第から豊臣秀吉が小田原征伐に出陣する際ちょうどこの時滞在していた琉球使節に出陣の様子を見せた(目的はもちろん軍事的威嚇です)ことなど、琉球への圧は増していました。朝鮮出兵の際は、琉球にも人員と兵糧米の供出を求めています。
徳川家康政権下の琉球対応
豊臣秀吉の没後は豊臣政権の中で徳川家康が力を持ち、関ヶ原の合戦を経て幕府を開き、最終的には大坂の陣で豊臣氏を滅ぼしてしまう流れはよく知られたところですが、この変遷の中でも琉球への厳しい対応は変わらず続きます。1602年には、伊達政宗の仙台藩領に琉球の船が漂着し、琉球人39名が徳川家康の命により薩摩の島津氏によって丁重に送還されていますが、その答礼としての謝恩使の派遣を琉球が拒んだこともありました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵終結後数年しか経っていなかった当時、中国との関係改善のため琉球は極めて重要で、徳川家康は琉球の漂流民が1人亡くなってしまったら薩摩の担当者5名を罰するとまで言っていたそうです。しかし、その時、琉球王国内では親中派と親日派が争い、親中派が主導権を握ったため、日本からの要求を拒絶しました。それまで内戦を繰り返していたのが統一された直後である当時の日本は相当な軍事大国だったのでこの政治的判断は結果的に見れば誤りだったかもしれません。
1609年、薩摩による琉球侵攻
慶長14年、1609年の春、薩摩の島津氏による琉球侵攻が行われます。当時は九州から琉球に行くには、台風の季節が終わった晩秋の北風によるのが自然ですが、琉球侵攻は春の南風の季節に行われています。このことについても次回お話しします。
鎌倉幕府の源氏や北条氏、後醍醐天皇、南朝、足利氏など、中世以前の日本と深く関係し、交易で栄えた時期もあった琉球が、薩摩に支配されてしまう時代がやってきます。決して明るい話ではないかもしれませんが、現代の沖縄への北関東的な文化の残り方などを考える上でも避けては通れないところですので、次回は琉球侵攻について具体的に見てみたいと思います。
筆者プロフィール
安延 嶺央 (やすのぶ れお)
関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。
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