【会員寄稿コラム】栃木県は琉球王国の起源?⑲
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2025年10月17日
栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会
会員 安延 嶺央

豊臣の影を帯びた琉球侵攻と坂東武者の終焉
慶長14年(1609年)3月、ついに薩摩藩による琉球侵攻が始まります。坂東武者や商人、鎌倉時代の悪党と呼ばれる人たちなどが盛んに出入りし、鎌倉幕府や室町幕府と深く関わって交易で栄えた古琉球の時代が終わり、以後琉球は薩摩藩に服することとなってしまいます。そして明治維新後、いわゆる琉球処分で沖縄県となり、戦争や米軍による統治などの苦難あり、沖縄ブームや観光地としての賑わいなどの明るい話題ありで現在に至っています。
南風の春に向かった異例の“琉球侵攻”
薩摩藩と琉球は1580年頃までは友好関係を保っていましたが、豊臣政権、その後江戸幕府との間で次第に関係が悪化し、島津氏が大御所徳川家康、将軍徳川秀忠の許可を得て琉球を討つこととなりました。実際の侵攻は1609年の3月に行われますが、これは少し不思議です。九州から琉球へと向かうには、台風シーズンの終わった晩秋の北風に乗って南下するのが自然で、南風の吹き始める春に行うのは効率的ではないからです。実際、途中の島々で風待ちのため何日か停泊していたりもします。
実は、豊臣秀吉の九州や小田原攻め、朝鮮出兵の出陣式の日がいずれも琉球侵攻と同じ3月1日なのです。月が立った吉日にことを始めるということです。また、琉球の降伏後、三司官の謝名親方利山は鹿児島で、薩摩藩に従う旨の起請文への署名を拒んで吹上浜で処刑されていますが、この起請文の書式が、元々は近江国(滋賀県)で使われていたもので、豊臣政権時に全国で使われるようになったものだそうです。つまり、既に江戸幕府が成立し、将軍は二代目の徳川秀忠となり、徳川の世が完成しつつある時期に行われたにも関わらず、琉球侵攻は何故か徹頭徹尾豊臣秀吉のスタイルで行われているのです。これは朝鮮出兵なども踏まえ、琉球侵攻を理解するために大変重要なポイントだと思います。
島津と徳川、複雑な力学
この時代は、駿府の大御所徳川家康が六十代半ば、江戸の将軍は徳川秀忠二十代後半、豊臣秀頼はまだ十代で二条城の会見の2年前、という時です。当事者はと言えば、島津忠恒42歳、大将樺山久高49歳、尚寧王45歳、謝名親方利山60歳、と皆それぞれに働き盛りの年代です。
1609年春の南風の季節、島津氏の軍勢が南下し、奄美、琉球の島々は圧倒的な武力の前に降伏し、尚寧王は江戸へと連行されてしまいます。その時、駿府では徳川家康に謁見して、まだ幼い頼宣と頼房が能を披露しています。後の紀州藩と水戸藩の初代藩主、八代将軍吉宗の祖父と水戸黄門で有名な光圀の父にあたります。徳川家康が外交の場に子供たちを立ち会わせるのは一種の英才教育で、二条城の会見の時にも義直と頼宣に迎えや送りをさせています。琉球についても、それだけの重みのある国としての課題と位置付けられていたのでしょう。
この時70代半ばの隠居の身だった薩摩の島津義久の句をご紹介します。
むかふ風 あらぬは梅の にほひかな
やはり春の琉球行きは向かい風で無理がある計画だというのは、当時の薩摩の常識だったようです。これについて、無理な時期に攻めていることへの隠居からのちょっとした皮肉かもしれないという解釈を読んだことがありますが、むしろ、「梅のにほひ」=足利将軍家の御威光の名残ではないでしょうか。以前書いたように、足利将軍家と「梅」のつながりで言えば『梅松論』、北野天満宮、歴代将軍と梅の逸話などがあり、琉球にはそれらを思わせる「ムメキヨラタチナリノ御イベ」という神名もあります。琉球侵攻の行われた1609年は足利将軍家の時代は名実ともに終わって久しいですが、当時70代の島津義久は足利将軍の時代を知っていますし、琉球と足利将軍の密接な関係も承知していたのではないでしょうか。
それを踏まえて考えると。「春の南風に逆らって琉球へ向かう。琉球は足利将軍家と密接であったが、足利の時代は過ぎ去り、琉球に梅の花が無いのと同様、足利将軍家の御威光はもはや名残すらもない。そして今、島津氏が琉球を討つのだ。」というような意味であるようにも思えます。
いずれにしてもこうして、坂東武者が活躍した時代の終焉とともに琉球の華やかな時代も過去のものとなってしまうのです。
侵攻で失われた坂東武者の痕跡
島津氏は琉球の人の姓や地名、文化などについて「大和風のもの」を禁じてしまいます。これは、異国までも従えていると対外的に示すための薩摩藩のアピールのためです。そしてこの時代に、現代に通じる琉球舞踊、組踊などの、和の文化とは少し趣の異なる、いわゆる沖縄文化が形作られていきます。江戸の将軍の代替わりの際に上京する琉球使節の披露する服装や踊りは江戸の町人にも好評で、江戸時代末期にも琉球ブームが起きていたそうです。しかしこのため、現代に残る坂東武者の痕跡が見えにくくなってしまっているのも事実です。
また、琉球の王墓「ようどれ」の意味は「夕凪」ではなく坂東武者の伊東氏由来の「浄土入り」ではないか?と何度が書いてきましたが、その元来の意味が忘れられて言葉だけが残り、理解が難しくなってしまった原因も、薩摩藩の統治策にあるように思います。薩摩藩では江戸時代浄土真宗・浄土宗が禁制で徹底的に弾圧されていて、門徒たちは「隠れ念仏」と言って密かに信仰を守り続けてきたそうです。この方針が琉球にも適用されたため、「ようどれ」は浄土信仰が元であることが忘れ去られてしまったのではないでしょうか。
薩摩の浄土真宗門徒は見つかれば拷問など手ひどい弾圧を加えられたので、薩摩の門徒たちが、隣接する伊東氏の飫肥藩に逃げ込んだ、といいますが、最近では、飫肥藩が薩摩藩の門徒の逃散に関与していたと言う説もあるそうです。逃亡した門徒を受け入れれば労働力強化して藩内の産業振興ができるし、もしかしたら隣藩の技術や農漁業の知識などを得られるかもしれないからです。中世以来の島津氏と伊東氏、伊東氏と琉球の関係、琉球の「ようどれ」のことなどを考えても、とてもしっくりくる説であるように思います。
この1609年を起点として琉球の歴史は大きく変わり、中世以前の坂東武者の活躍の痕も見えにくくなってしまっていますが、残されたかすかな手掛かりから、江戸時代になる前の本州から琉球までを含む列島の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
筆者プロフィール
安延 嶺央 (やすのぶ れお)
関東で育ち、関西で学び、沖縄に暮らしています。あるきっかけから歴史に関心を持ち、古代から中世の列島の歴史について調べるうちに、琉球王国には坂東武者が深く関わっていることを確信し、坂東武者について調べる中で坂東武士図鑑(※当HP)に巡り合いました。坂東武者と琉球の関係を綴っていきますのでよろしくお願いいたします。
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