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【会員活動報告】宇都宮の奥州街道を歩いてみた!

  • 7月13日
  • 読了時間: 9分

2026年6月12日 栃木の武将藤原秀郷をヒーローにする会 専務理事 岡田康男




宇都宮の奥州街道を歩いてみた!


宇都宮が関東の重要拠点であったといわれる訳の一つ、それは・・・

江戸時代に定められた主要幹線道「五街道」の内二つの街道「日光街道」と「奥州街道」が通っている珍しい街であるということで、それだけみても重要な町であり地域だったことがわかる。

ということで、今回は、われらがヒーロー「藤原秀郷」とは直接的には関連ないが、秀郷などから生まれたその後に続く武士の時代の約600数十年後の江戸時代初期、重要な都市であった宇都宮の街なかを貫く「奥州街道」を歩いてみようと思う。

●まずは五街道について(※当時は「街道」ではなく「道中」といった)

江戸時代はじめの1601年(慶長6年)、徳川家康が整備し始め、二代将軍秀忠の時代に基幹街道として定められた五つの街道。江戸・日本橋(または江戸城大手門)を起点に地方へ向かった「東海道」「日光道中」「奥州道中」「中山道」「甲州道中」の五つの陸上幹線道のこと。1716年(享保元年)五街道の正式名称が定められた。

▶︎東海道

1624年(寛永元年)完成。

江戸から京都の終点までを結ぶ当時の主要な道。海側を通るので「海道」と呼ぶ。

起点:江戸日本橋→終点:大阪(初期:京三条大橋) 575km 宿数:58

▶︎日光道中(日光街道)

1636年(寛永13年)頃完成。江戸と徳川家康を祀る日光を結ぶ社参の重要な街道。

起点:江戸日本橋→終点:下野国日光 150km 宿数:21

▶︎奥州道中(奥州街道)

1646年(正保3年)完成。宇都宮から北面の守りの最前線陸奥白河までを結ぶ。

起点:下野国宇都宮→終点:陸奥白河(後期は蝦夷・函館まで) 84km 宿数:9

日本橋から宇都宮までは日光街道を同道。   

▶︎中山道

1694年(元禄7年)完成。 日本の中央部の山中を通る街道なので「山道」という。

起点:江戸日本橋→終点:近江国草津(後期は京まで) 530km 宿数:67中仙道とも表記する。日本橋から山側の下諏訪、妻籠を経て、草津(近江国・滋賀県)まで。

▶︎甲州道中(甲州街道)

1772年(明和9年)完成。

起点:江戸日本橋→終点:下諏訪 214m 宿数:22

日本橋から、内藤新宿、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する。

 

五街道は、

・各宿場に伝馬の常備を義務付けた。

・江戸の防衛を目的とし、街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まった。

・道幅を広げて宿場を整備した。

・一里(約4 km)ごとに一里塚を設けた。

・道筋の明確化し環境整備に銀杏木などの並木を植えた。

・砂利や砂を敷いて路面を堅牢化した。

など、特別な整備をした街道といわれる。

 

●それでは宇都宮の奥州街道を歩いてみよう!

今日の行程は・・・



江戸時代の絵巻に残る宇都宮の奥州道中としては・・・



五街道のうち「日光道中」と「奥州道中」が宇都宮宿を経由し、宇都宮宿を起点として「奥州道中」が白河へ繋がっている。

その「奥州道中」の起点が、現在の大通りと清住町通り(本郷通り)の交差点。「追分」という表示がある。

「追分」は街道や幹線道の分岐・合流のこと。全国にその地名が残っている。

その「追分」からスタート。(地図①追分)

案内の表示板があるので、チェックしてみよう。

 

追分交差点(右:日光道中:本郷町通り、直進:奥州道中:大通り)
追分交差点(右:日光道中:本郷町通り、直進:奥州道中:大通り)
 追分の表示(地図②高札場跡)
 追分の表示(地図②高札場跡)

追分の表示「追分」から、大通り北側の歩道を100mほど歩くと、歩道の車道側に「高札場跡」という表示板が見える。

高札場跡
高札場跡

「高札場」とは、古代から明治初期にかけて行われた法令(一般法、基本法)を板面に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法。木製の板札に墨書きで表題・本文・年月日・発行主体が書かれ、往来が盛んで人々の目をひきやすい場所、たとえば市街中心の辻、出入口、橋の袂(たもと)、関所などに高く掲げられた。

ということは、江戸時代はこの辺りが賑わいの中心で街の中心でもあったということ。今の街の成り立ちとはちょっと違っていて面白い。

続いて歩道を東に向かって歩く。


この辺りから東方向(JR宇都宮方面)を見ると、緩やかな下り坂担っている。今は一般的には「池上の坂」などということが多いが、かつては「朝日坂」と言ったそうだ。(地図③朝日坂)

朝日坂(坂上から東方向を見る)
朝日坂(坂上から東方向を見る)

この「朝日坂」あたりは、当時の宇都宮では一番と言われる商業の中心地であった。当時坂の上には観音像を祀ったお堂があり、この観音像には朝一番に陽が当たるので「朝日坂(旭坂)」と呼ばれたという。


そして坂の上からは、二荒山神社や宇都宮城下を広く一望できたともいわれている。


大通りをそのまま東に向かう。


県庁前の本町交差点を通り過ぎ50mほど来ると、大通りの向かい側に、オリオン通りに向かって南に入る道が見えてくる。ここは横断歩道がないので、地下道を使うか手前の本町交差点を渡って大通りの南側歩道に出る。


このオリオン通りに向かって南進する道が奥州道中。ここを南進する。

 ここを右手に入る
 ここを右手に入る

道に入って10mほど、左手に「向明館跡」という石碑が立っている。(地図④向明館跡)

「向明館」とは、明治天皇の東北巡幸の際、行在所(あんざいしょ・行幸の際に設けた仮宮)になった所。元々は、江戸時代の豪商、鈴木(津山)久右衛門の邸宅で、明治9年(1876)6月に明治天皇が宇都宮城址での練兵を天覧されたおり、ここが行在所に選ばれたという。明治天皇はここの日本庭園を随分と気に入られたと伝わるが、今はその面影はない。以前は小さい公園になっていたが、現在は修繕中で入れないのが残念。

史跡「向明館跡」の石碑
史跡「向明館跡」の石碑

向明館跡(現在修繕中、入れないのが残念)

「向明館跡」をすぎて正面の道:オリオン通りに当たったらそこを左折する。

 

オリオン通りを左折
オリオン通りを左折
オリオン通り
オリオン通り

しばらく進み、オリオン通りのアーケードを抜けると、バンバ通りとの交差点に出る。

左手遠くに二荒山神社が見えてくる。

バンバ通り:二荒山神社 
バンバ通り:二荒山神社 

二荒山神社に参拝したいところだが、ここは気持ちを抑えて直進。オリオン通りから日野町通りへ進む。

日野町通り
日野町通り

この「日野町通り」の名の由来としては、慶長3年(1598年)宇都宮城主となった蒲生秀行が近江国蒲生郡日野から商人(近江商人)を招き、移住した日野商人が住みついたことに由来し、その出身地名「日野」を取って名付けられたといわれている。この商人たちが、それ以降の宇都宮の経済の基盤を作り、支え、発展させたといわれている。この日野町は、今日の散歩のスタートであった追分本郷町や朝日坂上の地域と並んで、江戸時代、もう一つの商業の中心地域であったといわれている。

ここ日野町通りをまっすぐ、突き当たるまで進む。

正面の道が田原街道
正面の道が田原街道

 日野町通りの突き当たりの道が田原街道(現在の宇商通り)。この信号を渡って左折する。そして、右手のファミリーマートの角を右折・東進する。「大町通り」の表示がある道が奥州街道である。

田原街道(現在の宇商通り)
田原街道(現在の宇商通り)
右折して大町通りへ
右折して大町通りへ
大町通り
大町通り

 大町通りを100m位進むと、右手に「おしどり塚」の石碑が見える。(地図⑤おしどり塚)

おしどり塚入り口の石碑
おしどり塚入り口の石碑

石碑の奥は、今は「おしどり塚公園」になっていて、その一角が「おしどり塚」として伝承されている。

「おしどり塚」とは、鎌倉時代の無住法師(むじゅうほうし)によって書かれた仏教説話集「沙石集(しゃせきしゅう)」によって伝承された物語の舞台で、ここを流れる求喰川(あさりがわ)を舞台とした一つがいのおしどりと漁師のいきさつを伝える宇都宮の民話。

「昔々のことであったと。宇都宮のあさり川は、川べりに葦が生い茂って、水鳥たちの餌場だったと。この辺りを狩場にしていた猟師がおったと。

ある日、一日中山を歩いても獲物がなかったと。帰りにあさり川を通ると、おしどりがいたので、弓を引き、射とめた雄のおしどりの首を切り落として持ち帰ったと。

次の日も、猟師があさり川を通ると、同じ所に雌のおしどりがうずくまっていたと。すぐに撃ち取り拾い上げると、雌のおしどりは雄の首を抱えていたんだと。

猟師はおしどりを持ったまま立ちすくんでしまったと。「おら、何て罪深いことをしてしまったんだべ。」猟師は、頭をまるめて坊さんになったと。川岸に塚を造って、

石塔を建てて、おしどりの菩堤を弔

ったと。今でも大町の民家の裏に、おしどり塚はあんだと。」

おしどり塚の碑
おしどり塚の碑

さて、もう一度大町通りに戻り足を進めよう。


大町通りを東進すると、やがて上河原通りが見えてくる。そこを右折する。


大町通りと上河原通りの交差点
大町通りと上河原通りの交差点

上河原通を北進すると、直ぐに大通りとの交差点に出る。

上河原通と大通りの交差点
上河原通と大通りの交差点

大通りを渡り、そのまま上河原通を北進、200mほど進むと、左手に小さいお社がある。

ここが、今日の最後の目的地「三峰山神社」である。(地図⑥三峰山神社)

三峰山神社
三峰山神社

お社の中には墓跡が2基あり、中世の奥州藤原氏の傍流である樋爪(ひずめ)氏の兄弟のものと伝わっている。

樋爪氏は、樋爪俊衡が現在の岩手県紫波町日詰箱清水あたりに樋爪館を構えてことに始まる。 俊衡は奥州藤原氏初代清衡の四男清綱の子。源頼朝が生贄として二荒山神社に奉献した樋爪俊衡と弟の季衡の墓、あるいは、季衡とその子経衡の墓なのだという。


三峯神社の二基の墓石
三峯神社の二基の墓石

樋爪氏の初代俊衡は、奥州藤原氏初代の藤原清衡の四男清綱の子といわれ、現在の岩手県紫波町日詰箱清水あたりに館を構えたことに始まるといわれている。


源頼朝が奥州征伐(奥州合戦)により藤原氏を平定した際、捕虜(生贄)として二荒山神社に奉献した樋爪俊衡と弟の季衡(あるいは季衡とその子経衡)の墓なのだという。


奥州で捕虜にされた樋爪一族は、逃亡を企て捕獲されてして斬り殺されてしまったのだという。その二人を祀ったのがこの墓だと伝わる。


また別の伝承として『吾妻鏡』によると、奥州征伐が行われた文治5年1189年9月4日、奥州に頼朝軍が到着すると、大軍に驚いた樋爪俊衡は樋爪館に火をかけて逃亡してしまう。


しかし、9月15日、俊衡と弟の季衡は降伏して頼朝のもとに出頭した。


俊衡らをみて哀れに思った頼朝は、一族を宇都宮氏の流れくむ八田知家に預け、俊衡の罪を許し、元の領地(比爪)を安堵したという。源頼朝は、奥州からの帰路、往路戦勝祈願をした二荒山神社を参拝した頼朝は、祈願成就に感謝して荘園を一箇所寄進し、俊衡の一族を神官として奉納したという。


二荒山神社に伝わる祭礼図絵には源頼朝が奉納した捕虜(生贄)の樋爪が記録されている。


祭礼図絵左ページ
祭礼図絵左ページ

さて、ゴールはもうすぐ!

三峯神社から北へ進むと、直ぐに大きな橋に出る。田川にかかる幸橋(さいわいばし)だ。

田川に掛かる幸橋
田川に掛かる幸橋
幸橋
幸橋

古の宇都宮では、この幸橋が北東の玄関口だった。つまり、この田川までが宇都宮の領域だったといわれている。

町域の東北つまり鬼門の玄関口なので「幸橋」と名付けられたのだろうか?

橋を渡って続く街道が奥州道中(白澤街道)で、次の宿場・白澤宿へ向かい、北の前線基地・白河に続く。

史跡・旧篠原家住宅
史跡・旧篠原家住宅
北へ向かう奥州道中(白澤街道)
北へ向かう奥州道中(白澤街道)

さていかがだったであろうか?宇都宮の中の奥州道中?

日頃見慣れた約2kmの街並みも、少し視点を変えるだけで新たな発見があって楽しい歴史散歩になったと思う。

ぜひ皆さんも歩いてみてはいかがでしょうか!?







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