

【水野先生コラム】皆川歴史研究会が発足します/その④
2025年11月28日 栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会 顧問 水野 拓昌 小田原城「大脱走」 皆川広照の大胆不敵な行動 皆川広照の行動の中で、とても劇的なのが1590年(天正18)の小田原城脱出です。イチかバチかの決死の行動。胆力があり、綿密な計画性も感じられ、広照らしさが凝縮されたクライマックスです。 小田原城を拠点とする関東の覇者・北条氏は、宇都宮氏、佐竹氏、結城氏など一部の北関東有力諸将を除いて関東一円の武将、国衆を屈服させました。皆川氏は1586年(天正14)頃から北条氏に従属します。一方、天下統一に向かう豊臣秀吉と北条氏の対決は避けられない状態になります。秀吉は1585年(天正13)に関白就任を果たしており、その軍事力は強大。北条氏政、氏直父子は難攻不落の小田原城で秀吉の大軍を迎え撃つ方針を示し、配下の関東諸将は命令に従って小田原城の守備に就きました。広照は竹の鼻口を守ります。 「誰一人取り残さない」100騎での脱出劇 20万もの大軍で小田原城を完全包囲する秀吉軍に対し、8万超の軍勢ながらも劣勢は明らかな北条氏。籠城継続か城外


【水野先生コラム】皆川歴史研究会が発足します/その③
2025年11月24日 栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会 顧問 水野 拓昌 家康六男・松平忠輝との愛憎 皆川広照は、現在の栃木市にあった皆川城、栃木城を拠点とした坂東武士ですが、徳川家康との関係は深く、家康六男・辰千代(松平忠輝)の養育を任されました。家老として成長後の忠輝も支えています。長年苦楽を共にした三河武士も多数いる中、家康はかなり広照を信頼し、厚遇していました。 家康が期待したのは広照の持つ坂東武士とのネットワークかもしれません。 豊臣秀吉の意向で関東に移った家康にとっての脅威は、宇都宮、佐竹ら関東に残る有力武将や、関東の背後で大きな所領を持つ奥州勢。彼らは敵か味方か。その動向を探る上で関東をよく知る広照の知見、情報収集力は重要だったはずです。そして、ゆくゆくは松平忠輝に北関東での重要なポジションを任せるつもりで、広照に預けたのかもしれません。これは勝手な想像ですが。 古文書によると、家康は出生直後の忠輝を捨てようとしたとか、広照が忠輝を7歳まで育て、家康に対面させたとか、家康は長男・信康に似た面構えを嫌ったとか、いろいろな話が


【水野先生コラム】皆川歴史研究会が発足します/その②
2025年11月22日 栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会 顧問 水野 拓昌 無名の武将・皆川広照 信長、家康も名を間違えた 「皆川歴史研究会」発足に合わせて、藤原秀郷の子孫で、ドラマチックな生涯を送った戦国武将・皆川広照の魅力を紹介していきます。 「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」の皆様は、皆川広照はご存じかと思いますが、世間一般には無名です。戦国マニアでも名も知らないという人はいます。名くらいは知っている程度の人もかなり多いと思います。とにかく地味です。 これは、広照が生きた時代も同様で、1581年(天正9)、広照は織田信長に名馬3頭を献上しましたが、『信長公記』は「蜷川山城守」と誤記。さらに数日後、信長が献上された馬を大変気に入っていると伝えた徳川家康の書状も、宛名が「蜷川山城守殿」となっています。広照と信長の間を取り持ったのは家康ですが、その家康自身が「皆川」(ミナガワ)の苗字を「蜷川」(ニナガワ)と読み違え、それが信長に間違って伝わったようです。 「いきなり、しようもないエピソードを出しやがって、最初にこれか。何が皆川広





